原文は非常に読み辛いので適宜改行してるよ
ちなみに原文はチャタレー事件最高裁大法廷判決の真野毅意見(結論には賛成だけど過程が異なる場合に書く文)の一部
ちなみに真野毅さんの簡単な紹介は
http://ja.wikipedia.org/wiki/真野毅
一般的にいつて、猥褻の法律上の意義内容を明らかにする正確な解釈を打ち立てることは、はなはだ困難な仕事であるが、それをいかように定義を定めてみたところで、さて問題となつた具体的の描写が、その定義として解釈された事柄に該当するかどうかの第二次の判断は、裁判官に負わされた一層困難な仕事である。
というのは、裁判官が個人としての純主観によつて判断すべきものではなくして、正常の健全な社会人の良識という立場にたつ社会通念によつて客観性をもつて裁判官が判断すべきものである。純主観性でもなく、純客観性(事実認定におけるがごとく)でもなく、裁判官のいわば主観的客観性によつて判断さるべき事柄である。
多数意見は、「相当多数の国民層の倫理的感覚が麻痺しており、真に猥褻なものを猥褻と認めないとしても裁判所は良識をそなえた健全な人間の観念である社会通念の規範に従つて、社会を道徳的頽廃から守らなければならない。けだし法と裁判とは社会的現実を必ずしも常に肯定するものではなく、病弊堕落に対して批判的態度を以て臨み、臨床医的役割を演じなければならぬのである。」といつている。これは一つの本事件に関するばかりでなく、すべての事件に通ずる裁判の使命ないし裁判官の心構えに触れている点においてすこぶる重要な意義がある。
法律上真に猥褻と認められるものに対し、裁判上猥褻なものとして処理することは当然すぎるほど当然な事柄であるが、それ以外の「社会を道徳的頽廃から守らなければならない」とか、「病弊堕落に対して批判的態度を以て臨み、臨床医的役割を演じなければならぬ」とかいつた物の考え方は、裁判の道としては邪道である、とわたくしは常日頃思い巡らしている。
裁判官は、ただ法を忠実に、冷静に、公正に解釈・適用することを使命とする。これが裁判官として採るべき最も重要な本格的の態度である。憲法で、裁判官は法律に拘束されるといつているのはこのことである。
しかるに、前記のごとく道徳ないし良風美俗の守護者をもつて任ずるような妙に気負つた心組で裁判をすることになれば、本来裁判のような客観性を尊重すべき多くの場合に法以外の目的観からする個人的の偏つた独断や安易の直観により、個人差の多い純主観性ないし強度の主観性をもつて、事件を処理する結果に陥り易い弊害を伴うに至るであろう。思想・道徳・風俗に関連をもつ事件においてことに然りであることを痛感することがある。
またこの邪道は、被告人の基本的人権の擁護に万全の配慮をしなければならぬ刑事事件において、却つて取締の必要を強調して法を運用しようとし、時に罪刑法定主義の原則を無視ないし軽視するに至る他の邪道にも通ずることを篤と留意しなければならぬ。
http://www.courts.go.jp/hanrei/pdf/29781F7F9B5D2FA449256A850030AFC6.pdf