割り勘にすると、酒が飲めない人がそれだけ損をする、って意見がテレビで紹介されてた。
確かにそうだと思ったんだけど、テレビの中で、酒を飲める人たちが、「別にでもそれでいいんじゃないの?」「それくらいいいでしょ」「だってじゃあどうすればいいの?」「酒が飲めない人はたくさん食べるからちょうどいいでしょ」等と言っていた。どうすればいい、って、自分が食べた飲んだ分だけ払えばいいと思うのだが……酒が飲めないからといってたくさん食べるとも限らないし、酒が飲めない上たくさん食べない人は更に損ではないのか……ていうか酒飲めるあんたらはいいだろうけどね……彼らのこの言い分に僕は密かに怒りを感じていたのだが、傍にいた人が更に仰天発言をした。
「彼らの言い分はおかしいよね」と僕が言うと
「え?でも、そりゃそうじゃね?だってどうすんのさ、割り勘しかないだろ」
「各々で食べた・飲んだ分を払うとか、酒飲まない人からは酒の分だけ割り引くだとかいくらでもあるだろ」
「えー、そんなの面倒だろー。別にそんなたいして変わりないんだしぶつぶつ言う方がなんかおかしくね?わがままじゃね?」
わがまま?!
「そこでわがままとか言うのはおかしいだろ」
「だってそうだろー、酒飲めない奴のためにいちいちそういうことしてやらなきゃいけないなんてさ。皆に迷惑だろ。わがままじゃん。そいつが我慢すれば全て丸くおさまるんだから、我慢してればいいだろ。なんでわざわざ言ってくるんだ」
えぇええええええ
おかしいだろうと思ったが、よく考えてみると、この手の「わがままじゃん」は世に溢れている。ネット上でもたびたびこのての「わがままじゃん」に僕はよく遭遇する。なぜ僕はおかしいと思うのか、そして彼らはなぜ「わがままだ」と言えるのか、それを考えてみると、
要するに彼らとしては、その主張が正当なものであろうがなんであろうが、多数派に迷惑をかける、多数派を嫌な気持ちにさせる、ということが「わがまま」であり「悪」であるのだろう。「俺達多数派が嫌な思いをするような主張は、正当だろうがなんだろうが悪」なのだ。あるいは多数派、でなくともいいのかもしれない。とにかく「俺が嫌な思いをするような主張はお前のわがまま」なのである。そういう「わがまま」の使い方をしている人間というのは割りといる。その人にとってみれば、「現にお前の主張により嫌な思いをしている俺という被害者がいるのだ、お前は他者に迷惑をかけている、わがままをいっているのだ」ということなのだ。この使い方でいくと、他者と対立したときはどんな立場であろうが、なんであろうが、対立している以上、相手に「わがままだ」と言えることになる。だからこそ、ネット上の議論でもなんでも、上記のようなおかしな「わがままだろ」が出てくるのである。
しかし僕はそれはおかしいと考える。
他者の事も考える、とか、他人に迷惑をかけない、とか、そんな口当たりのいい言葉だけをピックアップすれば、いかにもそれだけで「善」のような気がしているが、正当な範囲においては、他者に迷惑をかけても、それはやむなし、ということもあるのだ。それが例えば今回の酒である。酒を飲めない人が損をしないためにはその他が迷惑(この場合は得ができなくなる・面倒くさいという迷惑である)しても、それは「仕方の無いこと」なのである。問題は、それは正当な範囲か否か、の点であり、議論すべきはそこであるのだが、皆そこを考えずただ自分が気分を害しただとか迷惑したなんていうりゆうですぐ「わがままわがまま」と言ってのける。
他者に迷惑をかけない、というのは、絶対的な善では「ない」。個人の自由とあいまって、それは優先されないときも多々ある。それなのに、他者に迷惑をかけない、というのは耳障りがいいものだから、皆なんとなく「いいことだー」とホワホワ洗脳されてしまっている。だから意味の分からない「わがまま」理論がまかり通ってしまうのである。
おれは酒は飲むが、飲まない人が支払いを安めにしたいと言えばそうする。 しかし、今回の件に限ったことではないが、ある行いがわがままかどうかってのはそれぞれの主観だと思う。 ...
後半のわがまま理論の所は置いておくが、 前半の飲み会で割り勘ってのは不公平だとしても仕方ないんじゃないのか? そういう飲み会では大抵一つの皿をみんなでつつくって感じになる...
飲み会で払う代金は、参加費みたいなものだと思ってる。その参加費で全員が、(常識の範囲内で)飲み放題+食べ放題というルール。常識が著しく違えば参加しなければいい。 飲まな...