それはほんのちょっとしたいたずらだった。まさかそんなことになるとは、Cは夢にも思っていなかった。
先日学校からいじめバッジというのが全生徒と全職員に配られた。それをつけている者はいじめをしませんという証であり、それをつけていない者はいじめをされているという無言のメッセージを意味するらしい。しかしCのクラスでは、少なくともCの知る限りではいじめなんてなかったし、自分たちには関係のないものだと思っていた。それでも、教師がつけろというものだから皆仕方なくバッジをつけていた。
ある日の体育の授業開始時、Cは日直の仕事のため職員室へ行っていたため皆より少し遅れていた。授業開始のチャイムが鳴り、皆が出る頃に更衣室に入った。更衣室にはCが一人で取り残された。Cは焦って着替えていたが、そこでふと、友人Dの制服が目に入った。その襟元には例のバッジが光っている。Cの心に瞬間的にいたずら心が芽生えた。「このバッジを隠したらどうなるだろう」
DとCは自他共に認める親友同士だった。小学校以来の友人で、家族ぐるみの付き合いだった。よくふざけあったりしていたが、お互いに最も心を許せる友人だと思っていた。だからこそ、CはDにいたずらをしても許されると思っていた。
CはDの制服からバッジを取り外し、自分のポケットに入れた。バッジがなくなったことに気付いたDの焦った顔を想像するとニヤニヤとした笑みが浮かんでしまう。そこで「なんちゃってー」とバッジを出して笑いを取るという寸法だ。
体育の授業が終わり、皆が制服に着替え直す。しかしDはバッジがなくなっていることに気付かなかった。Dだけでなく、周りの誰もそのことに気がつかない。CはいつDが気付くかヤキモキしながらも、何も知らない風を装っていた。
次の授業は担任の受け持つ数学だった。担任が出席簿を見ながら点呼をはじめる。教室を見れば空いている席がないことなど一目瞭然なのだが、この担任はなぜかいつも一人一人の名前を読み上げる。そうやって生徒とコミュニケーションを取ってでもいるつもりなのだろうか。Cの名前が呼ばれ、少し後にDの名前も呼ばれた。Dがダルそうに返事をすると、そこで担任の点呼が止まった。
「おいD・・・。お前バッジはどうした?」
Dは最初、なんのことかわからないようだったが、すぐに自分の襟元をまさぐり、そこにあるべきものがないことに気付いた。Cはいまにも笑い出しそうだったが、必死に平静を装っていた。
「え・・・と・・・わかりません・・・」
Dが小さな声で答える。顔が真っ青になり、目がキョドっている。ここまで効果的だとは思わなかった。Cはそろそろ頃合だと思い、ネタばらしをしようとしたのだが、授業中のしんとしたこの重い雰囲気の中で「なんちゃって」を言い出すことができず、言葉を飲み込んでしまった。
「お前、いじめられているのか?」
「え・・・あ・・・」
Dはいつもの快活さを失い、どもりながら是とも非ともとれない返事をするだけだった。Cはいじいじしていた。ここで「違います」とか「なくしました」とか言えば、自分も「なんちゃって」が言い出せるのに。
「授業の後に俺のところに来い。ゆっくり話を聞いてやる」
「あ・・・ちが・・・」
「違う」と言ったようだったが、それは担任の耳には届かなかったようだった。クラスメートたちは哀れみや同情の目でDを見ていたように見えた。しかしどうやらそれだけではない空気も流れていた。「いじめられていたのか」「めんどくさいことしやがって」。誰かがそう言ったわけではないのだが、Cは皆がそんな風に思ってDを見ているように思えた。そしてCは、ますますネタ晴らしを言い出すことができなくなってしまった。
授業が終わった。今の数学がこの日最後の授業だったので、その後は掃除をして放課後だ。Dは掃除もそこそこに、担任のところに行くためか教室を出ていった。Cはもうニヤニヤしているどころではなかった。どうにかして誤解を解こうと思ったが、完全にタイミングを失ってしまっていた。ポケットの中のバッジを握る手は、嫌な汗でじっとりと濡れていた。Cは掃除が終わり、教室に人気がなくなったのを確認してから、Dの机の中にこっそりとバッジを返した。その後はDが戻ってくるのもまたず、逃げるように家に帰ってしまった。
翌日。Dはまだバッジをつけていなかった。机の中にバッジがあることに気付いていないのだろうか。しかし教科書の出し入れをしていたので、気付いていないはずはない。では意図的に付けていないのか、それとも本当にバッジがなくなってしまったのか。しかし暗い顔で俯いているDに、それを尋ねることはできなかった。Cは朝からDと言葉も交わすさず、ただじっと様子を見守っていることしかできなかった。
朝のホームルームがはじまる前、トイレに行っていたCは廊下で担任と出会った。適当に朝のあいさつをしたところ、担任がCにだけ聞こえるような声で「後で職員室に来い」と言った。担任は理由はいわなかった。心当たりがあるといえば、昨日のDの一件くらいだ。ホームルーム後に職員室に行くと、担任は人のいない談話室へとCを連れていき、話をはじめた。
「Dから聞いたが、お前、Dの物をよく隠したりするそうだな。お前はいたずらと思っているかもしれんが、それでDは深く傷ついていたらしい。昨日バッジを外していたのはそのためだそうだ。お前のいたずらが、Dにとってはいじめだったんだ」
Cはとてもショックだった。まさかDがそんなふうに思っていたなんて。確かによくふざけてものを隠したり、背中を叩いたり、スリーパーホールドかましたり、ノートに落書したりしていた。そういうことをDはいじめと受け取っていたのかもしれない。
Cはどんよりした気持ちで教室に帰った。いつもと変わらない教室のはずなのに、皆の視線が自分を責めているような気がする。いや、昨日の今日で職員室に呼ばれたのだ、皆薄々と感づいているのかもしれない。CはDの方を見た。Dは一人で席に座り、何をするでもなくじっと俯いている。Cはとにかく悪意がなかったことを告げ、許しを請おうとDの前に立った。深々と頭を下げ「ごめん!」と叫んだ。Dは俯いたまま、小刻みに肩を震わせている。泣いているのか、起こっているのかわからなかった。そして次の瞬間、
「なんちゃって!」
Dが吹き出し、大笑いをはじめた。教室中がDに注目する。
「俺の方が一枚上手だろ?」
Dはいつもの快活な表情に戻り、ニヤニヤと笑っていた。
Bは気付かなかった。Bは制服が汚れてきていたので金曜日にクリーニングに出して日曜日に取ってきた。Bは大雑把な性格であったので月曜日の朝までそのまま放置して、月曜日の朝に慌て...
Aは悩んでいた。バッジを外すか外さないかを。先日学校からいじめバッジというのが全生徒と全職員に配られた。それをつけている者はいじめをしませんという証であり、それをつけて...
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