2007-11-03

プログラミングしていて、ふと思いついたので改良してみた。ソースは多少ややこしくなったが、どんなアセンブリに解釈されるのか考えてみれば、むしろ素直なコードとなっていることがわかるだろう。内部的にはよりエレガントに、実行速度もメモリ消費も従来より向上出来た。こういうときほど、プログラムを楽しく思うことはない。それなのに……没になった。

連絡が取れなくなって久しい、いとしかったしとは今どうしているのだろう。あの頃はまだ自分を省みる余裕もなくて、嫌と言われないことにいい気になって、ただ弾む心のままに影のように付いてまわって、頼まれもしない諸々の奇書を紹介したり(本好きな人でした)、狐アイテムを贈呈したりして、こちらは友人か何かだと勝手に信じていたけれども、今にすれば、あれは単なるストーカーだった。守護天使になれなかった私は、不幸を呼ぶ背後霊だった。それに私が気付いたとき、あれだけ浮かれていた、あれだけ幸福に充ち満ちた日々は一転して恥ずべき、嫌悪すべきものに転じて、あの日々が楽しく悦ばしき日々だったちょうどその分だけ、私の心に苦痛と苦悩とが襲ってきた。傲慢は罪を生み、罪と傲慢は死に至る病を生むのだ。

そのような理由から、私は獣娘に目覚めた。特に狐、というか狐こそ獣娘、否、娘の頂点に君臨すべき存在と知った。これは、日本人遺伝子に刻みつけられた必然である。全国の神社の三分の一は狐の主を祀っており、古来より人々は狐と交わり、交わることを望んできたのだから。狐に比べれば、人魚なんぞただの寿司ネタであり、ミイラとして飾られるべきものに過ぎない。そんなものに現を抜かす輩が散見されるのは、単に狐を見かけること少なき時代にあるからに過ぎないのだ。故に、狐を見たその瞬間にもふりたい衝動に駆られるのは理の必然であり、彼女たちを崇め奉りたいという崇高な神愛を感じることは何ら怪しむに足りない。今となっては、あの苦しみはこの真理を知るための試練であったことは確実であった。あと、彼女たち狐は必然的に彼「女」であることも疑い得ないが、これからして狐は人を必要とすることが帰結されるわけである。

このような魂の叫びを吐露する場がネットにしか存在しないことは悲しむべきことである。こうした思いは、ここまであからさまな形ではなくとも、古来口伝によって脈々と語り継がれてきたのであり、それによって私たちは狐の故事を知るに至るというのに、今の社会ではこうしたことが不可能となってしまった。だから、あの、神愛を理解し得ない、美しいだけの空の器、黄金の女だとか百銭の女だとかの罪深きイヴの粗悪な末裔に見惚れてばかりの、俗物根性旺盛な歯車みたいな男が量産されるのだ。自身もその同族であるからといって、目を曇らせる必要はない、しっかと見据えれば目も眩む光にもいずれ慣れるのだから。

今や没になった悲しみは収まりつつあるから、この駄文を終わらせる。想いの移ろうままに無思慮に書くことがこんなに心を楽にするのものであるのは、不思議なものだね。

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