僕のハードディスクの中に眠っている数MB程のテキストファイルと数千枚の写真、絵などの映像ファイルは全てインターネット上に、製作者が公開していたものを自分で拾ってきたものです。彼ら、彼女らはネット上では(ですら)有名人ではありません。普通に生活している、ごく平凡なありふれた人達です。月並みです。僕はそういった他愛も無い、各々の些細な自己主張の場であるHP(ホームページっていう呼称は僕は気に入らないけどこっちの方が一般的だと思う。ウェブサイトと書くと企業や法人がやってるような堅苦しいイメージもするしね。単なる偏見だけど。)を多数巡回し、しかし良質、有益な情報を選別し集めてきました。
彼ら、彼女らは有名ではありません。これは、後にも先にも同じ事です。インターネットに依存しにくい普通の生活を送っている人達が、単なる暇潰しや、それに準ずるあまり価値の無いものを求めて活動しているので、ほとんどの人が簡単に始め、簡単に終わりを迎えるという事がよくあります。(逆にそういう気軽な心がけが大切かもしれません。これは実感してみないと分からないと思います。)僕の所持しているファイルは殆どが数年前ものです。年単位のオーダーは個人で情報を発信する側が半年から1年で活動停止になるのが殆どという事を考えると、僕の収集活動から見れば長いものです。古い情報です。その情報を生み出した人間も、同じ名義ではもうネット上で活動をしていません。大袈裟な表現だと思いますが、これらの様な、同じ名義上での活動の停止とは一つの人格の死に等しいと僕は考えてます(勿論実際には誰も死にやしないし、生まれもしませんが)。その名前で発信され続けてきた様々な情報は、何らかの連続性を持っています。例えば、その人が文章を書く時に題材にされやすいもの、絵を描く時のタッチなど。そういった連続性こそが一つの人格と言えますし、その人格に何らかの価値や興味を見出して(あ、これって愛なんだ、と今更ながら思った。)、その為にその情報を求める、という普遍的な動機も世の中には存在します。
勿論僕はそういった動機も大切にします。だからこそ愛着を込めて同一名義上での活動の停止を『死』とか表現したり、僕の所持しているHDに蓄積された情報を自分の中では『形見』だとか表現して勝手にセピアな雰囲気に浸ってますが、前述の通りネット上での『死』は気軽な分日常茶飯事の事なので、ある程度慣れ、それに伴いあまり有益でない情報は無視する様になりました。これによって細かなディティールは急激に失われてしまっています。非常に残念な事ですが、記録を完全に保存する事は事実上不可能なので仕方の無い事です。
彼ら、彼女らの活動の証を保存しているのはきっとGoogleと僕以外にはいないと思います。そしてGoogleですらスタンドアロンなページのキャッシュは数ヶ月で消去される事を考えると、僕の持っている情報は少なくとも僕にとってはとても貴重なものです。ショーケースに飾られた、器用に作られた煌びやかな小物も同然です。客観的な価値なんてありません。しかし僕はそれらを大事に思います。愛しているからです。