2007-09-12

[]増田さん

 わたしは自分の名前が嫌いだった。多分、生まれたときからずっと。普通の人がどう思っているのかなんて知らないけれど、苗字も名前も、わたしにとっては、ひどく馴染まない、まるで他人の名前のようだった。母や姉にそう呼ばれても、条件反射で返事をしてしまうだけで、なんだか、わたしのことを呼んでくれたんだな、とは実感できない。幼いときからずっとそうだった。わたしにとってそれは、誰か別の人の名前なのだ。

 わたしが生まれたとき、名前を付けてくれたのは、祖母だという。それはそれは、非常に古臭くて奥ゆかしい名前だ。それはもう、わたしの名前の第一印象で、「あ、このひとはお年を召されている方だな」と勘違いしてしまえるくらいに。

 そんな古臭くて、はっきり言えばダサい名前なものだから、わたしはそれがすごく嫌いだった。周囲の女の子達は、みんな可愛らしい名前を持っていて、その名前がとてもよく似合っている。少なくとも、そういう子が多い。

 苗字も気に入っていなくて、これは明かしてしまうと、『増田』である。なんだかひどくおじさんっぽい苗字じゃないだろうか。特に『田』というのがいただけない。とてもじゃないが、麗らかな乙女マッチする苗字とは、ぜんぜん思えなかった。全国の増田さんには申し訳ないけれど、これはおじさんのための苗字としか思えない。中学生の頃は、小鳥遊、とか、西園寺、とか、そういう苗字に憧れたものだ。

 とにかく、名前も苗字も嫌い。ずっと嫌いだった。

 だからずっと、誰かに名前を呼ばれても、なんだか自分を呼ばれたという気がしなかった。そういう人生だった。

 家族に、友人に名前を呼ばれても、それがなんだか違うように思えて仕方ない。けれど、だからといって、じゃぁ、本当のわたしの名前ってなんだろう、とずっと思っていた。

 大学生になって、初めて彼氏ができた。高校生の頃から密かにアタックを続けていた結果だった。初めは、彼はわたしのことを増田さんと呼んでいた。けれど、やっぱり嬉しくなかった。いや、もちろん彼に名前を呼ばれるのは嬉しいんだけれど、なんとなく、ぴたっと噛み合う感じじゃないのだ。増田さん、なんていわれると、もうそれだけで頭の中がおじさん臭くなって仕方なくなる。このイメージは、けれど、他の人にはわかってもらえないかもしれない。もうわたしの中では、「増田さん=おじさん」なのだ。キスの直前に名前を呼ばれてそんなイメージが湧き出したら、もう大変だ。せっかくのムード台無しになって、それどころじゃなくなる。お前はおじさんとキスする気か、と突っ込みたくなる。

 そんなわたしの乙女心に気付いてか、彼はいずれ、わたしのことを下の名前で呼んでくれるようになった。ただ、その名前も好きじゃなかったから、やっぱりしっくりこない。それで、実はわたしは自分の名前が嫌いなんだ、と彼に言ったら、彼は変なものでも見るようにわたしを眺めたあと、デートの間中、ずっと思索に耽っていた。そうして、その日の別れ際に、彼はわたしに新しい名前を付けてくれた。

 今まで、あだなとか、ニックネームとは迂遠なわたしだった。親しい子が呼んでくれるそれらしい名前でも、「さっちゃん」という、本名に基づいた名前で、なんとなく違和感があった。

 笑わないで欲しい。彼はわたしのことを、「さらら」と名付けた。もちろん、本名に引っ掛けてる部分もあるのだろうけれど、「髪がさらさらしてるから」という、単純な理由だった。それで、わたしは彼に、「さらら」と呼ばれるようになった。

「さららは、今日は午後空いてるの?」とか、「さららは何飲みたい?」とか、もう、そんなふうに呼ばれる毎日で、正直、人前だと、ものすごく恥ずかしかった。多分周囲の人からは、馬鹿なカップルがいるなぁ、と白い眼で見られてたんだと思う。

 ただ、恥ずかしかったけれど、

 とても嬉しかった。

 わたしは初めて、わたしを呼ばれているような気がして、なんだか初めて、本当のわたしを見付けたような気がした。

 わたしは、さらら。

 恥ずかしい名前だけれど、そう呼ばれると、ちょっと頬が赤くなるのを自覚しながら、ああ、今、自分が呼ばれてる、自分が求められている、そう感じて振り向くことができる。

 たった一人のひとだけが呼んでくれる、わたしの本当の名前。わたしを示す、本当の記号。ほんものの名前。

 さららと呼ばれて、さららでいる間は、とても充実した日々を送れて、胸の奥が暖かくて、幸せだった。

 けれど今年の夏のはじまり。

 わたしは彼と別れた。

 彼氏に好きな人ができて、わたしは一方的に振られてしまった。

 わたしは、『さらら』ではなくなった。

 もう、わたしを本当の名前で呼んでくれる人はいない。

 もう、わたしを、特別な名前で呼んでくれる人は、いなくなってしまった。

 たくさん泣いた。体重がどっと減るくらいに。

 講義も、バイトもサボって、暗い部屋で耳を塞いで、一人ずっと肩を震わせている。

 さらら。

 そんなふうに呼んでくれて、そっと、この震える肩を抱いてくれるのを、待つみたいにして。

 一人、ひっそりと。

 また、わたしは、わたしではない誰かになってしまった。

 さっきから、ずっと携帯電話が鳴っていて、もしかしたら、彼からかもしれない、と淡い期待を抱いて、ディスプレイを眺めると、でも、それは彼からではなくて、友人からの着信だった。そっとしておいて欲しい。そう伝えたのに、何度も何度も、友人は電話をかけてくる。わたしはとうとう、苛々としてしまって、ストレスを発散させるようにして、手にした携帯電話を床に投げ捨てた。はっきり言って、ヒステリーだった。電池パックが飛んだかな、とか、思ったけれど、携帯電話は意外と丈夫で、なんともなかった。それどころか、投げようとして掴んだときに通話ボタン押してしまっていたみたいだった。そして通話は、何かの拍子にハンズフリーモードになっていた。

さっちゃん

 携帯電話から、わたしを呼ぶ声がする。

さっちゃん、どうしたの。さっちゃん

 それはわたしの友人の声だった。ずっとずっと電話を掛け続けていた友人の声だ。なんだか今にも泣きそうで、壊れてしまいそうな、頼りない声だった。

 その声が、さっちゃん、と呼んでいる。わたしの嫌いな名前を。他人のものとしか思えない名前を、ずっと呼び続けてる。

さっちゃん? ねぇ、返事しなってば。ちょっと、さっちゃん!」

 昔から、自分の名前が嫌いだった。

 誰かに自分の名前を呼ばれても、なんだか、本当にわたしを求められている、という気がしなかった。だから、わたしのための、わたしにだけしかない名前を呼ばれたとき、わたしは嬉しかった。

 はじめて、誰かが、わたしを求めてくれてるんだって、そう感じた。

 どうしてだろう。

 今、わたしは、この嫌いな名前で、心の底から誰かに呼び求められているような気がした。

 携帯電話を拾い、手にして、耳に押し当てる。

 電話の向こうから、息を飲むような気配がする。そうして、溜息と、もう一度、わたしを呼んでくれる声。

 どうしたの、ずっと連絡もしないで。心配してるんだよ。大学はどうするの。来週、レポートの提出だよ。ノート、取ってあげたから、さっちゃんも、ちゃんとレポート出すんだよ。

 わたしはぐずぐず鼻を鳴らして、曖昧に頷く。

 大学生の夏、わたしは一度だけ、さらら、になって。

 そうしてまた、増田さん、に戻った。

 たぶん、きっと、名前なんか本当は関係なくて。

 いま、ここにいるわたしと、笑い合ったり、慰めあったり、そうしてくれる人達が呼ぶ名前が、

 今の本当のわたしの名前なんだろうから。

 *

 この日記増田フィクションです。

 前回、ブクマしてくれる人がいたので調子に乗ってまたやった。後悔はしていない。

 タイトルは「名前」にしようとしたが、ここはあえて。

 長文ウザかったらすまんす。

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