そもそも一つの行動には必ず目的とコストが存在するわけだけど、その目的を満たすために選んだ行動が本当にコスト最小(=最適)なのか、ということを、まず冷静に判断する必要がある。そのためには、他の選択肢を考えたり、信頼できる人間に相談して客観的な意見をもらったりした方が良い。
いや、いやいや。
だから、行動しないと云々と言われる人ってのは、そこで引っかかって行動できなくなってるわけだろ。
「本当にコスト最小か?」それをあまりに緻密に考えすぎて、迷って、判断できなくなったり
「他人に相談」して、客観的というより所詮他人事な、他人の言葉にいちいち振り回されたり
そうやってるうちに、もういいよ、と投げ出したり、結局ストップしてしまったりして行動しないで終わる。
だから「そんなぐじぐじ考える前に、行動しろ」、って事だろ。その種の話ってのは。
実はそうやって「客観的意見を照らし合わせ…」だの「コストをきちんと考え損のないように…」だのいちいち考えるタイプに、「結局考えすぎて何もやらない」奴が多いんだよ。しかも、「客観的意見を照らし合わせ…」「コストを…」とかそういったいかにも合理的なように見えることってのは今君が言ってるように一般的に「いい事」というか、「賢い決断法」だと思われてしまいがちで、考えてる本人も「俺は今理性的に判断してるぜ」な感覚でいるから、なおさらそうやって考えたり悩んだりする事をいつまでもやめない。で、そういう奴が一番実は行動しないし、危険なんだよ。
決断には、計算できない、割り切れない、自分のモチベーションなどそういった精神的な事も絡んでくる為、数学の問題のように「こっちの選択肢はコスト1でメリット5」とかそんな風に割り切れない。自分の感情、モチベ、そういったものを無視できる人でない限り(無視できるというのは、単に見ない考えない事ではなく、無視してもちゃんと成り立つってことな。無理して自分の精神的な要因を無視しても意味はない。それで別にやっていける、っていう特殊な人でないと)。
決断に必要なのは、ある程度の適当さと、自分の感覚。無論君の言う、コストや目的なんかも大事なのだが、そういうのは案外皆やっている。敢えて言わなければならないのは、「ある程度適当になれ」「感覚は割りと大事だ」という事。この二つは、「合理的判断」に対し、その判断法を信じきっていいものか勇気がいるからだ。適当にやれ、とか、感覚で、なんて、一般的にはあまりよくないイメージ、考えていないイメージだから、その二つになかなか決心して身をゆだねることができず、人間はついつい根拠のありそうな「合理的判断」に走ろうとしがちだ。人間はやはり安心を求めたがる。しかしたいていの人生の個人的な決断において、合理的判断とやらは悩みのループの種になりかねない危険なものでもある。無論、それ自体が悪いわけじゃない。要はそれだけに頼りすぎるな、ということだ。感覚だけでもやはり勿論だめだろう(しかし感覚というのは、案外理にかなっている事が多い。とかく現代は感覚が軽視されがちだが、ある意味感覚ってのは、論理よりも速く答えに到達できる、超論理なのだ(それが絶対じゃないから、感覚に頼る事が悪とされがちなのだが、案外感覚の正答率は高い))。
それと、これをいったら終わりだが、結局何事も「やってみないとわからない」のである。
ぐじぐじ悩むより、コストなんかを頭の中でざっと整理したら(綿密にならないのがポイント、適当でいい)、あとは感覚も含めて決断してしまい、さっさと始めることだ。間違っていたらやり直せばいい。どうせ、今までの自分なら、まだ「コストはこうで、あーで」と悩みまくり、進んでいないのだから。よくなかった事がわかっただけ収穫なのだ。失敗をゼロにしたい気持ちはわかるが完全にゼロはどうせ無理なのだと割り切りある程度で進む事が重要。
よく、「行動しなきゃ後悔するよ」みたいな「行動系」の名言を耳にするけど、実際に大切なのは行動するか否かじゃなくて、どう行動するかの方だと思う。行動するなんてことは本当は...
そもそも一つの行動には必ず目的とコストが存在するわけだけど、その目的を満たすために選んだ行動が本当にコスト最小(=最適)なのか、ということを、まず冷静に判断する必要が...
というかそもそも「行動しない」というのも「行動を起こさないという行動」だと思うんだけどね。 世間的には積極性を持った選択だけが「行動」とされているようだけども。
それは屁理屈