2007-04-13

http://anond.hatelabo.jp/20070413011949

うーん、英語教育でいうコミュニケーション能力とは、つまり英語という言語記号を使ってコミュニケーションできるということ。

「自らのパーソナリティの低さを自覚できるコミュ能力」=「パーソナリティ」であって・・・変な話になってきたけど。

要は、パーソナリティを伴わない(ニワトリと卵を分化したような)コミュ能力への批判になるのかな。

パーソナリティを示す力こそが、コミュ能力の本質じゃろ、ということ。

じゃあ学校教育レベルで考えれば順序が違うことも明白。

だって、パーソナリティ母語ですら自覚しえない未熟な小学生に、どういう動機で英語を教えるのか。

社会人生涯学習なんか知らんよ。自由に駅前留学してパーソナリティのなさに狼狽えていればいい。

記事への反応 -
  • コミュニケーション手段が発達した結果、コミュニケーションにも格差が生じている。 SNS等々の先端コミュニケーションの調査によって浮き彫りになるのは、社交的な人間はより幅広く...

    • コミュ能力はパーソナリティを表現するための道具。コミュ能力だけ高くパーソナリティが薄い人間は空虚感を与える 絶好例…しなさりんど パーソナリティの表現能力が低くても、時間...

      • これは小学校における英語教育にも例えられそうだ コミュニケーション能力=英語の習得 パーソナリティ=言語生活者としての日本人 いくら英語で話せるようになっても、母語教育...

        • ちょっと例から離れるけど、コミュ能力の獲得がパーソナリティの希薄さを露呈してしまう、ということ。 その通りなんだけどさ、だからこそパーソナリティーの希薄さをなんとかし...

          • うーん、英語教育でいうコミュニケーション能力とは、つまり英語という言語記号を使ってコミュニケーションできるということ。 「自らのパーソナリティの低さを自覚できるコミュ能...

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