「明治政府 vs 徳川家」というか、「薩長同盟 vs 徳川慶喜」の権力争いってのが実態。
徳川慶喜が推し進めた公武合体運動により、薩摩と長州が権力の中枢に入り込むことができなくなって、危機感を持って倒幕に転じたという流れ。
ちなみに、
水戸学の影響で徳川慶喜は徳川幕府不要論者だった
というのも額面通り受け取っちゃダメで、慶喜はあくまで諸侯会議をベースとした徳川家による実権確保を狙っていたというのが真相。
改めて「なんでやらなきゃならなかったのか?」と言われれば、権力の中枢から疎外されていた薩摩と長州が実権を握るため、ということになる。
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