2010-09-04

自分の話を他人に聞いてもらう」ということ


私の文章がつまらないのは、自分でもわかっていた。

わかるけれど、誰かから何かを言われないと、変わる事がむずかしい、と思った。

そう思ったから、ぼろくそに叩かれるのを覚悟の上で、ここに増田として書いてきた。


誰かを非難した文章を書いた覚えはないけれど、そう取られてしまったことがあった。

ろくに読みもしないで、叩いている人がいた。

正直、面白くなかったけれど、そんな事が続いていたある時、挑発釣りを文章に織り込んで、何かを書かないと誰も読んでくれない、ということに、遅まきながら気が付いた。


技術としての釣り、というようなものがある。

キャンペーンガールぬいぐるみなどの客寄せパンダのような、それ。

やりすぎると本末転倒になるけれど、何もしなくても、多くの人に読んでもらえる訳ではない私にとっては、たぶん身につけなくてはならない技術なのだろう。


ツイッターで誰かがいっていたけれど、「悪口や悪意をいうと、本音と思われる」というのがあった。

確かに、悪口をいうと、疑われにくい。少なくとも、悪意は。

けれど、それが本心なのかは、わからない。

それは、「少なくとも、こいつは本音を書いている」と、思わせるような技術かもしれないし、やっぱり本音かもしれない。

釣り」を本気でやろうと思ったら、頭が良くないとダメだ、と思った。


書いてあることを疑いすぎる人もいた。

ネットにあることを疑う事自体は、悪くないと思う。

ただ、その人のはてブを見ていると、疑いすぎて、身動きが取れなくなってきているような感じを受けた。

安全のための現状維持、安全のための現状維持、安全のための現状維持…… それがずっと続いていくと、どうなるのだろう?

安全な場所からは出てこないけれど、安全な場所がゆえに煮詰まってゆく。

彼らと比べると、そこそこ釣られている人達のほうが、楽しそうに見える。


話題によっては、無反応の記事もあった。

100のはてブがつけてもらえたとしても、真意をわかっていそうな人は、1人いれば、いいほうだった。

「何故わかってもらえないのだろう?」と、最初は甘ったれた事を考えていたけれど、「100人いる中で、1人には、私の言いたいことがわかってもらえた」のだ。素晴らしい事だ。奇跡だ。

技術としての釣りの部分には、まったく触れず、核心のみだけにコメントしている人は、本当に少ない。


ネット自分の話を聞いてもらおう」と思っただけなのに、嫌な思いをした人は、私以外にもいると思う。

嫌な人が多くいる、とまではいわないが、そういう人は声だけはでかいから、大勢いるように錯覚する。あれは不思議だね。

けれど、何の考えも努力もなしに、そういっているのなら、幼稚だとも思う。

もちろん、子供は別だけれど、ある程度の年齢なら、「こちらの話を相手にわかってもらおうと思ったら、段取りが必要になる」という事を考えなくてはならない。

いや、これは、あなたにいっているわけではなくて、自分にいっているのだ。


もちろんこの文章にも、仕掛けがある。

大したものではないので、気がつく人は、すぐに気がつく。

仕掛けに気がつく人は多い。でも、真意には気がつくだろうか?

でもまあ、こういう内容の文章って、人気がないんだけどね。

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