2008-05-03

世界のナベアツ問題に対する哲学的アプローチ

「3の倍数と3の付く数字だけアホになる」世界のナベアツ整数列においてどの程度アホになるかを判定する、所謂「世界のナベアツ問題」があり、どうやら死ぬほど続けていくと、限りなく100%に近い確率でアホになるようであるが、この問題に対しする数学的アプローチは理系の方々に任せ、数学が病的に出来ない私としては、この問題に対し哲学方面からのアプローチを試みたいと思う。

クレタ人のパラドクス」というのがある。

クレタ人は嘘つきだ」と(クレタ人の)エピメニデスが云った。
というもので、仮にこの命題が真だとすると、エピメニデスは嘘つきなので、『「クレタ人は嘘つき」』は嘘になるはずなのだが、本当のことを云っていることになり、矛盾が生じる。

逆に、この命題を偽とすれば『「クレタ人は嘘つき」』という発言は嘘になり、矛盾が生じる。

『「私は嘘つきだ」』という嘘をついたエピメニデスは正直者だ、ということになるのだ。

ここで、世界のナベアツパラドクスについて考えてみる。

つまり、「3の倍数と3の付く数字だけアホになる」と発言するナベアツは、この説明時に「アホ」にならなければならないのではないか、ということである。

ゲーデル不完全性定理によれば、『「事実(観測された事項)」が定理に合致する』ということをもって初めて「『証明』として完結することが出来る」ということから、ナベアツのアホについての説明はできないこととなる。

私が数学が嫌いな理由は、解が一つに収束することである。

世界のナベアツ問題」について、どのような回答をするか。

ニーチェなら、「ナベアツは死んだ」というだろう。

京極夏彦なら「世の中にはアホなナベアツなどありませんよ。アホだと感じるなら感じる者が無知なだけです。」というだろう。

村上春樹なら、「完璧なアホのナベアツなどといったものは存在しない。完璧絶望存在しないようにね。」というかもしれないし、

サン・テグジュペリなら「大人は、みんなはじめはアホだった。」というだろう。

問いに対して、バラエティーに富んだ答えがある、哲学的な命題を愛して止まない。

そして、「2の倍数と2が付く数字のときに感じる滝川クリステル企画の実現を切に願う。

2拍子で喘いで、20から29までラッシュ、みたいな。

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