はてなキーワード: クーベルタンとは
深夜。
ここに住んでいるのは、本来の予定である去年から延期され今夏開催となったオリンピックに関する、実質的な全権を握っている人物だった。
このたった一人が、首を縦に振れば開催。横に振れば中止。そういう存在である。一般報道でもオリンピック関係者の一人として名前が挙がってはいるが、ここまでの絶大な権限を有していることは知られていない。
そして〈影〉は刺客だった。かの人物に、首を横に振らせるための。
難なく寝室まで入り込んだ〈影〉は、ベッドの上で独り穏やかな寝息を立てる〈関係者〉の姿を確認する。どれほどの権力を持っていようとも、睡眠中の人間ほど無力なものはない。
手の中の凶器を喉元に突きつけてやると、それだけで〈関係者〉はゆっくりと両の目を開いた。
標的の覚醒を確認した〈影〉は、余計な前置きを抜きで短く告げた。
〈関係者〉の目が無言で動き、〈影〉の顔を捉えた。数秒後、〈影〉がもう一度要求を繰り返そうとした時、〈関係者〉が口を開いた。
「オリンピックは、開催される」
落ち着いた声色だった。発せられた内容に一切の疑いを持っていないことが、誰にでも伝わるような。
〈影〉に本来下された指令は、要求が拒絶された場合、即座に〈関係者〉の命を断つことだった。しかし、あまりに強い確信を見せる相手の様子に、〈影〉はつい尋ねていた。
「なぜだ?」
信頼できる専門家の検証により、もしもオリンピックが強行開催されればこの国は、現在世界で流行中の新型殺人ウイルスによって壊滅的な打撃を受けることがほぼ確実と予想されている。人口が50%以上減少し、首都は以後200年は人間が立ち入ることのできない廃墟と化すだろう。
それほどの犠牲を払ってまで開催する価値が、オリンピックというイベントにはあるというのか。それは経済的な理由か。あるいは国家の威信の問題なのか。
「……子どもの頃、好きなテレビアニメがあった。本当に大好きだったんだ」
「何?」
質問とは全く関係がないように思える答えを返した〈関係者〉を〈影〉は、まだ意識がはっきりしていなかったのかと訝しんだ。しかし、〈関係者〉の言葉は淀みなく続く。
「家族や友人には申し訳ないことだが、当時の私にとっては一週間の中で、そのアニメの放送中こそが最も幸せな時間だった。ネット配信どころか、ビデオデッキすらろくに普及していない時代だったからね。毎週テレビにかじりついてリアルタイムで見入っていたものだ」
「……」
「それがある日、本来の放送時間になってもアニメは始まらなかった。愛すべきキャラクター達が躍動しているはずの画面には、生身の人間たちが、走ったり投げたり跳んだりしている様子が映し出されていたんだ」
「……」
「私は両親に尋ねた。これはいったい何なのかと。彼らは優しく答えてくれた。『オリンピックだよ』と」
「……」
「私は思った。“私のアニメ”の代わりに堂々と放送されるほどのものなのだから、このオリンピックというものにはよっぽど価値があるに違いないと。私は30分の間、人間が走ったり投げたり跳んだりする様子を正座して真剣に鑑賞し続けた。その感想は――」
「……」
「クソつまらなかったよ」
〈関係者〉は柔らかく苦笑した。
〈影〉は、自分の額に大粒の汗が浮かぶのを感じた。今、この世で最も恐ろしい真実の一つが語られようとしている。
「オリンピック終了後の惨状を目の当たりにして、国民は、そして世界中の人々は、君と同じように尋ねることだろう。なぜだ?これほどの巨大な犠牲を払ってまで開催する意味はあったのか?――そもそもオリンピックには本当に価値などあったのか?」
「……」
「そうだ。その問いのためにこそ、このオリンピックは、“地球最後のオリンピック”は開催されなくてはならない。絶対に」
〈影〉は理解した。この人間は、「オリンピック」という存在を世界から葬り去るためだけに、国一つを生贄に捧げるつもりなのだ。
「……!」
〈影〉は、今回のオリンピック強行開催には断固反対だ。しかし、オリンピック自体やアスリートには人並みの敬意を払っているつもりでいる。刺客としての優れた資質こそ有しているが、思想的には素朴な一市民なのだった。
「お前は……狂っている!」
今度こそ指令を、正義を実行するべく、凶器を握る手に力を込めようとした、その時。
「!?」
突如、視界の横から赤くて丸い何かが鋭く滑り込んできたかと思うと、〈影〉の手の中の凶器があるはずの位置を、何の抵抗も無しに素早く通り過ぎていった。次の瞬間、凶器はきれいに両断され使用不能になっていた。
金属製の凶器をバターのように斬り裂いた何かの正体を求めて影が視線をさまよわせると、宙に奇妙なものが浮かんでいた。超高速で回転する、赤い小さなリングだ。
いつの間にか、〈関係者〉がベッドの中から開いた右手を突き出している。浮遊する赤い輪は回転を保ったまま、意思を持つようにその親指へとひとりでに填まった。
そして、気がつけば右手の他の指にもそれぞれ別の色の輪が、同じように回転しながら装着されている。青、黄、黒、緑……
「〈近代五戦輪(クーベルタン・チャクラム)〉……オリンピック上級関係者なら誰もが使える基本技だよ」
この程度の情報も知らされていなかったのかと、嘲りよりも憐れみのこもった視線が〈影〉に向けられる。
「う、うおおおおおおお!」
刺客にあるまじき大絶叫と共に窓ガラスを突き破り、〈影〉は室外へと飛び出した。この突発的行動が戦力の不利を覚っての撤退なのか、それとも理解不能な存在への恐怖に駆られた遁走なのか、〈影〉自身にももはや分からなくなっていた。
「……」
独りになった自室のベッドの上で〈関係者〉は、ガラスの割れた窓から外を見るともなく見ている。
その右手に填まっていたはずの五つの輪が、一つ欠けていた。薬指の黄色だ。
黄色の輪は現在、本人には気づかれぬまま〈影〉の背中にぴったりと貼り付いている。〈影〉が外へと飛び出す直前、〈関係者〉がそのように操作したのだ。
五色の戦輪は基本的な切断能力に加え、それぞれに固有の機能を持っている。黄色は端的に言うと、発信器のようなものだ。おおよその位置情報を今も使用者の元に逐一送り続けている。
背後にいるのは恐らく、野党か新聞社かインフルエンサー。そんなところだろう。いずれにしても、三日以内にはこの件に関わった全員が家族もろとも“行方不明”になるだろうが、〈関係者〉はもはやそんな些事には興味を失っていた。
割れ窓越しの夜の闇。その中に〈関係者〉は、幼い頃に初めて見たオリンピックと、これから始まる最後のオリンピック、両方の幻を見た。
〈関係者〉は、うっとりと呟く。
「オリンピックは開催される。そして――」