君は少々決定論に偏見が混じっているように思う。
なぜなら我々は責任までを勘定して行動するのが常であり、
その責任の代償までをも加味し、
それらが事前に意思決定の判断材料として事前に「決定」されているのだから、責任を伴う行動も決定論の範疇となる。
自由意志の否定は意思決定を否定するものではない。その意思決定はおろか、その責任の存在を考慮した行動、それに伴う責任の発生とその処理、すべてが決定的であるというのが決定論の立場だ。
責任逃れの答弁として自由意志の否定を持ち出したのが誰かは知らないが、それは勘違い、読み間違いというもの。
だから、責任の否定と自由意志の否定は独立した話。別問題なんだよ。
つまり、君の言う
という前提自体が間違っているのだから、どうしようもない。間違っているというよりか、そういう定義にした、というか。
しかしながら、その前提は近代社会成立において大きな役割を果たしたこともまた事実。
前提の正しさと社会の成立は無関係だから、前提からたとえ飛躍していても、それに合わせた社会が形成される。
もちろん君はその前提の捉え違いについて責任ある行動を取ってもらいたいが、その行動は決定的だろうな。まあ決定論の縛鎖の中でせいぜい頭使って、自由意志の存在を主張してみてくれ。
それらが事前に意思決定の判断材料として事前に「決定」されているのだから、責任を伴う行動も決定論の範疇となる。 その決定論における責任の範疇が、個人のさじ加減だから信用...