2010-10-17

公と私

大概は、”私”とは自分個人のことで、”公”とはみんなのことだと考える。

公私混同」というとき、たとえば、仕事してるときのプライベートな通話とかを指して言う。

しかし本来、”私”というのは個人のことじゃなくて、「何かの立場に立っている状態」を言うということ。

つまり、自分個人としての立場で、「~したい。」「~したくない」ということだけじゃなくて、日本人としての立場でも”私”である。

今みたいに個人が独立したのはごく最近で、1980ぐらいはもっと家族単位地域単位でみんなモノを考えてた。

そういう状態でいえば、”私”とは家族地域のことも含むことになる。どこまでが私事なのか??

例に挙げられたのは尖閣諸島の話だ。

日本人として考えれば、尖閣諸島日本領だってのは当たり前で、その立場に立って中国を批判する。

だけどそれも、結局”日本人”の立場に立ってものを言っている訳で、”私”の意見なんだ。

中国人としての”私”の立場日本人としての”私”の立場を踏まえて、もうひとつ上の立場に立って、じゃあどうすればいいか。考えるのが”公”だ。

日本人中国人立場に立って、お互いに主張しあうのは楽だ。だって「言うべき言葉」はもうわかっているから。考える必要はなく、ただ互いを恐れ、怒ればいいのだ。感情に任せて。

だけどそれは私事である。頭を使う必要がない。ただの動物である。

僕らは人間だ。感情の単純な発露である”私事”を踏まえて、きちんと解決を考えないといけない。それが”公”の立場だ。

日本人感情中国人感情。それぞれの目的をちゃんと受け止めて、我慢すべきことは我慢して、お互いにとっていい状態を得ること。それが”公”だ。

俺は右翼を自認するけど、今右翼と名乗る人にはすごく違和感がある。

やっぱり、今の右翼尊皇攘夷に過ぎない。

明治維新時の日本のように、単に中国(当時は西洋)を恐れ、その恐怖の反動で、”私事”で怒っているだけだ。

日本武士道は、”公”のために”私”を殺すのが美徳だ。

であれば、”尖閣日本のものだ”という私事は横に置いて、”公”のために尽くすこと。つまり中国の人たちの希望も汲んで解決を模索することこそ、日本人の本来の姿なんだ。

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