2010-10-17

じいちゃんが死んだときのはなしをする。1/3 ながくてすまん。

物心ついてから先日祖父が亡くなるまで、人死にと縁のない人生だった。

自分は今20なので、わりと幸運なほうなんではないかと思う。

生き物というものは、どうやらいつか死ぬものらしい、と知ったのは幼稚園のときだった。

しかしニュースで死ぬのはいつも知らない人で、

「○○氏が亡くなりました」

「××の事故により△名が犠牲になりました」

というのも現実味の薄い話だった。

死んだ人ではじめて生前から知っていた人は、

小渕恵三だったか鈴木その子だったか…今調べたら、小渕さんだな。

2000年5月だから、そのとき自分は10歳?かな。

しかしもちろん面識はない。

死んだ人ではじめて身近な人は、

中2の時に死んだ姉の小学校の同級生の父親だった。

しかしやはり面識のない人だったから、あの子のお父さんが…とは思ったけれど、実感は薄かった。

当たり前だけど、ああ、ほんとうに、避けてはくれないものなんだな、と感じた。

それからテレビで知っている人も身近な人の大切な人も、たくさん死んだけれど、

いつもそれは遠いはなしだった。自分の直接知っている人ではなかった。

本物の死体を見たこともなかった。

死はいつも伝聞だったし、フィクションだったし、イマジナルな何かで、

所詮形のあるものではなかった。


自分本が好きなんだが、物語というのはやっぱり死をテーマにした話が多い。

セカチューのような話は好きではなかったけれど、

人が死ぬことで感動を煽ろうとするような話が多いというのは、

やっぱり死が言いようもなく重いことだからだと思っていた。

とりかえしがつかない。ひたすら暗くて、最悪のことのように感じた。

死に直面しないまま思春期を過ごしたから、想像ばかり膨らんで、死を過度に恐れていた。

父は開業医で、自分に跡を継いでほしかったようだが、医学部への進学は断固として拒否した。

単純に学力も足りていなかったのだけれど、人の死に触れ、責任を持つ仕事なんて考えられなかった。

両親は時々「ステる」という言葉を口にした。医療者の業界用語で「死ぬ」という意味だが、

あまりに軽くに口にするので、「もう慣れてしまって、普通ことなんだろうな」と思えて、その感覚も恐ろしかった。

死ぬことも、死なれることも、怖いことだった。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん