2010-09-21

自己責任論は社会の甘え

自己責任から逃れる行為が甘えだと言われているが、自己責任論こそが甘えだ。

そもそも自己責任とは、ある人間完璧自分の状況を把握しどうなるかを理解しているからこそ成り立つ。

また、責任を負わされる各人が平等環境の下で育てられていることを前提とする。

しかし現在社会においてそのどちらの状況も存在していないし、あり得ない。

まず自分の状況を完璧に把握することなどそもそも不可能だし、それを行った場合どうなるかは推測するしかない。これが出来るのは神だけである。

さらに、全員が平等環境で育つと言うのも難しい。生まれてくる子供は親を選べないし、親が全員同じアイデンティティ教育方針を持っていることなどありえない。さらに、個々人がバラバラな環境でバラバラな生き方をしているから多様性が保たれているのであって、これをなくせば社会はうまく動かなくなってしまう。

このような絶対に達成することが不可能な条件があるにも関わらず、それを全て無視して自己責任論を展開する輩は、社会に対して無責任スタンスを取り続けている。つまり、甘えていることに他ならない。

自己責任論を唱える人間の中に、自分人生は常に自己責任で生きてきたと豪語する輩がいる。彼らは概ね自信に満ちており、どんなことがあっても自己責任で乗り越えてきたという。

しかし、彼らは単なる奴隷だ。資本主義という主人に飼いならされた奴隷に過ぎない。いわば、「俺はこんなに痛めつけられながら、ご主人様に気に入られようと努力してきたんだ!」と胸を張っているだけである。実に滑稽。

そういう人間、つまり自分経験だけを頼りに生きてきた人間というのは、非常に視野が狭い。そのくせ自信だけはやたらとあるので社会においては発言力が大きくなる。人は自信のある人間言葉を聞くと迎合しやすいという特徴を持っている。彼らが「自己責任!」と叫ぶだけで、即座に「納得」してしまうのである。

自己責任論は権力者には実に都合がいい。彼らのために一生懸命働いてくれる人間が多ければ多いほど、コストをかけずに国家を運営出来る。もちろん、裏で悪いことも出来る。

お墨付き理論というわけだ。社会の不合理さやシステムの欠陥から目をそらさせ、個人へ責任をなすりつけるまやかし

誰かが自己責任論を唱えるたびに、この社会は衰退していく。

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