2010-09-17

強さに憧れなくなった

小学校から中学校にかけて、強い男に憧れた。

格闘漫画を読みふけったり、武道を習ったり。

弟と特に理由なく闘いごっこという取っ組み合いもしたりしてた。

女である母親にはまったく理解できない世界だったらしい。

強い、弱い、強いってカッコイイ、そんな話を無邪気にしたときに、「ぜんぜん理解できない」

と母が言ったいた。

今、僕はウエイトトレーニング趣味にしてる。

ウエイトトレーニングをする人たちは、格闘技好きな人、強さに憧れる人が多い。

なぜか逆に僕は、強さの憧れを失ってから筋肉を苛めるマゾ的な趣味を始めた。

あの時母は、「理解できない」のあとに

「だって、殴られたり投げられたりしたら痛いじゃん」と続けた。

あの頃は、殴ったり投げられたりする側になるかもしれないということを考えなかった。

多少の痛みはアドレナリンで吹っ飛んでいた。

殴ったり殴られたり、投げたり投げられたりするけど、どちらかといえば殴る、投げることが多いものだと思ってたような気がする。

練習して強くなれば、勝てるようになると信じてた。

試合ルールのなかでなら、なにをされても恨まない、恨まれないっと思ってた。

ダンベルやバーベルを扱って、無理をするとたまに怪我をする。

よく聞く名前でいうと、肉離れぎっくり腰が代表的だけど、筋挫傷、椎間板ヘルニア靭帯損傷、筋膜炎、腱炎。腱鞘炎、いろいろやった。

自業自得だから我慢できるけれど、これが例えば格闘技試合中に他人に傷つけられたものだとしたら、ルールの中だとしても恨むかもしれないと思うのだ。

もちろん、この程度だったら恨めしい気持ちも沸き起こるかもしれないが許せると思う。

でも後遺症が残る怪我なんてしたら、恨まずにいられる自信がない。

もっと極端に、死に至ってしまったら、自分が死んだらもう相手尾恨むことすら出来ないが、たとえば相手が死んでしまったら、遺族に恨まれるのは当然だ。

一発のパンチが決まったときには、殴った人間と殴られた人間が同時に存在する。

格闘技の楽しさは、他人を打ち負かして優越感に浸ることに他ならない。

試合のないという合気道だって同じだ。

小男が大男を投げ飛ばす。投げ飛ばされる人間自分を重ねたりはしない。

ボディビルダーは弱いといわれても(カラダを鍛える=ボディビルならそうかもしれないですけど、ボディビル大会には出てませんが。)、使えない筋肉意味はないといわれても、見せ掛けの筋肉といわれても、僕はこの先に拳を使うことはないと思う。

普通の人より重いものはもてるし、運動しない人に比べたら筋持久力も心肺機能も高い。

血中コレステロール中性脂肪も低く、長生き出来そう。

それで十分じゃないか。

  • >ウエイトトレーニングをする人たちは、格闘技が好きな人、強さに憧れる人が多い。 はあ~あ? あとあんた怪我しすぎだろ どんなやり方してんだよ

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