2010-06-28

中絶避妊法律で禁止せよ

子供ができて責任を果たすことをせずに欲望だけ満たしたいなどというのはわがままだ。

欲望を満たすのならばそれに伴う責任もまっとうすべきなのだ。


避妊(ここではコンドーム等器具の使用を指す)中絶を禁止したら実際いろいろな不幸が生じるだろう。

しかしそれらの不幸も神が与えた宿命として受け入れるべきなのだ。

中絶避妊によって「命の選別」が行われている。

生物の生きる目的自己保存すなわち生きることなのであり、

人格である親が子供自己保存を妨げる権利などないのである。

売春は有史以来古今東西消えることがない。

それはすなわち子供を作るという結果を回避しつつセックスしたい人間が決して消えない、

もしくは子供を作りたいと望んでいてもそれをかなえてくれる相手を得られない人間がいなくならないことの証明である。

子供を作りたいということはお互いにセックスの相手として独占しあう関係になってもよいということである。

売春禁忌とされるのは生まれた子供の福祉のためである。


どの社会売春の撲滅を目指してきたが、

婚姻が男女一対一の関係を規定している限り、

男が出す性で女が身ごもる性である限りそれは不可能である。

魅力のない下層何割かは結婚という制度に適合することのできない。

あぶれる人間必然的に生み出す一夫一妻制を敷くことは、

その時点で望まれない(独占関係のない男女の間にできる)子供を生み出す潜在的可能性を作りだすということなのだ。



人間の命の価値平等という理想を唱えるのならば、

あぶれた人間の間にできた望まれない子供でも、たとえ本人らや社会が不幸を背負ってでも、

生きる権利を与えるべきなのだ。

もしくは恋愛共産主義化といってもよいが、婚姻制度を撤廃する、男女の独占関係を要求せずに、

生まれた子供社会の支援のもと母親が育てるという制度を敷けばよい。


もしそれができないというのならば人間の命の価値平等ではないとオーソライズし、

その理念に従って社会制度倫理道徳も再構築するべきなのだ。


生まれた命はもとが愛だろうと欲望だろうと差は無い。つけるべきではない。

中絶避妊によって差をつけてはならない。

自分の欲望の結果できた命には責任を果たすべきである。

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