日本人は他人に依存するのが好きだから、どうしても他人を幸せにすることが自分の幸せだと思ってしまう。
また、他人を幸せに出来ない人間は人間失格だ、という風な考えがあらわれることにもなる。
ネット右翼が病んでいるのは、おそらく彼らが叩くリア充は他人を幸せに出来ているのに自分達はそれが出来ない(コミュ力がないから)という考え方をしている点にあるんだと思う。
そして重要なのは、彼らはその歪んだ気持ちをさらに歪ませて、「誰かを攻撃することで自分が幸せになる」という風な幸福論に持って行ってしまっているということ。
誰かを攻撃するというのも、結局は他人を幸せにするというのと同じこと。つまりやっていることはどちらも同じ。日本人的ないじめの構図というのもここから始まるのではないか?と思えてくる。
そこに気付けば、依存(ありがた迷惑な行為や他人を攻撃するなど)しても何の意味もないことを理解出来る。
よく言われることとして、人間は比較することでしか幸福を感じられないというもの。
しかし本当にそうか?たとえば小さな子どもが描く絵は本当に下手くそではっきりいって落書きというのもはばかられるレベルのものばかり。
しかし子どもがそれについて「自分の絵は落書き以下だ。才能がない」と嘆いたりすることはあり得ないだろう。それどころか、その絵を自信作とか最高傑作とか言って持ってくることすらある。
どんなに上手い絵があったとしても、それは他人の絵に過ぎない。他人の絵と比べたがる人間は、学習によって上手い絵と下手な絵を学んだからそうしているに過ぎない。
つまり最初に気持ちありきで、比較すれば幸福になれるということは単に学習の成果に過ぎない。
学習とは洗脳と同じ。オウムの死生観を生まれてからずっと学べば、それ以外を正しいとは到底思えなくなる。学校教育も単なる洗脳に過ぎない。
絵が上手いとは主観に過ぎない。同様に、比較によって得られる評価も主観に過ぎない。
無理やり何か基準を決めて評価する必要など本来はない。本来は自分の描きたいものを描けばいい、やりたいことをやればいい。
というより、他人の話など聞かなくていい。聞きたいときにだけ聞けばいい。
俺は今日書いた日記のトラックバックを一つを除いて何一つ観ていないし観るつもりもない。そこにどんなネガティブなことが書かれているとしても、ポジティブなことが書かれていたとしても、俺の意見は俺の意見としてあるだけだ。他人の感想など必要ない。これこそが本当に幸せになれる考え方だ。
だけどそれは「世界に自分独りしか居ない死ぬ生き方」ではないかね…