2010-05-24

ニートは堂々と親に養われるべき

タイトル釣り

まずは自己紹介のようなものを。

僕は6年通った学部をこの春卒業して今はフリーター

おっとそこのあなた、こんな自己紹介の時点で何か色眼鏡かけてないですか?

なんて、別に属性で人を判断するのは普通のことですけどね。

これが普通のことだと思うからこそ、今日はこんな記事を書いてみようと思ったのです。

大学の後輩の質問

きのう大学の後輩と飲んでいて、その子とは大学卒業して以来会うのは初めてだった。

そこで話題は自然と、とりあえず僕が大学卒業して良かったとか、この先はどうなってるのかとかいう話になった。

とはいえ、こういうとき僕に気をつかって、というか色々変なものを引き出しても面倒だし、

その辺のことについてあまり触れないでいてくれる人もいるんだけど、

この後輩はとても素直な感じかつ気をつかってくれる子で、わりと率直に聞いてくれた。

曰く、

世間体というものは気にならなかった(ならない)んですか?」

自分世間体の方が重いから、留年しそうだったけど正規ルートを進みました」

ものすごく単純に答えられる筈の質問(意見)なのに、僕は答えに窮してしまった。

なぜなら、それは僕がずーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっと考えてきたことだから。

僕は世間体が気になるし、その重さをとてつもなく感じている。

ただ、その重さをバネに留年回避しようと頑張れなかっただけだ。2年も。そして今も。

世間体を気にする眼差し

この日本社会アウトローになることは、辛い。

何が辛いかって、実際の世間の風当たりが強いとかいう以前からして辛い。(実際問題もあるけど、それとは別に)

世間の風当たりが強いと思い込んでいる自分との戦いが、まず辛い。(まず、ね。まず)

そんな思いこみ(でない場合も多々あるけど)はどこから来るのかというと、自分だ。

自分が人を見るとき、いかに世間体というフィルターでもって人を見ているか、

浪人した人、留年した人、ニートフリーターワープアホームレス

こういった人たちを見てきた眼差しがまるっと自分に返ってくる。

そうした眼差しは、自分内面化した様々な価値観の底とか横のあたりにべっちょりと付いてる。

だから、いざ自分アウトローに、当事者になってみないと、その眼差し意味に気づくのは難しいのかも知れない。

さらに、当事者になったところで、その眼差しを捨てられるわけでもない。

僕が「世間体」で悩んでしまうのは、まったくこのためだ。

後輩の質問に対する答え

したがって、後輩の質問と意見は、殆どそのとおりに僕も思っていることなのだった。

それなのに、どうしてそう即座に答えられないのかといえば、

それは、ただ単に、僕がずぼらだから。根本的にはそう。

ものごとを勘案して動ける人に対して、動けないずぼらな僕が、伝えられる言葉がないから。

だがそれだけでもない。

やっぱり、どこかに「この扱いは不当だ」という意識がある。

「なぜ人一倍世間体を気にする自分が、世間体を振りかざす人に説教されねばならぬのだ」という気持ちがある。

これは、後輩の質問に説教の要素を感じたということではなくて、これまでに蓄積してきたもの。

この積もる怒りに同意して欲しいという気持ちが邪魔をして、「自分世間体を気にしている」と簡単に言うことを阻んでしまう。

だから?、ついでに僕は「世間体」に同意していないことまでをも表明してしまう。

なんともややこしい奴である。

そんなわけで、僕自身は世間体というものの扱いには大変困っている。

しかし、同意しないことを貫くという考え方はちょっといい感じがしている。それが標題につながる。

気にするけど同意しない

たとえば、いつまでたっても親に養われ続けることを阻むものは何かと考えたとき、それは世間体なんじゃないかと思う。

現実問題として、働いた方がいいとか、将来困るとか、そういう話はわかる。それは社会全体で解決していけばいい。

しかしニートとかワープアの無縁死とか見てると、これは上でしてきたような話と関係してくるように思える。

つまり、素直な後輩が語ったように、普通の人は世間体を気にして人生のある程度を決めていく。

それができる人はいいが、世間体を気にしてもしょうがない人が気にする視線に同意して人生を決めるから、問題が起きるのではないか。

ただ、それはタイトルのような主張とは結びつかない。

タイトルの含意は、世間体の内容を新しく決めようとしてるだけだから。

こうした世間体であれば僕も気にしなくて済むから大丈夫、という話をしたいわけではない。

僕が言いたいのは、世間体は気になるけど、そんな視線に軽々しく同意して人生を決めるべきじゃないっていう単純なこと。

僕は大学留年時に親の援助をわざわざ一切絶ったけれど、何もいいことはなかった。

「いや、でも偉い」と思ってくれた人は、少し思いを馳せてもいいかもしれない。

その言葉が、僕のような者に届くとき、援助を受ける人に届くとき、どう響くのかということに。

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