なぜならば、「就活」に対する多くの論旨は、過去と現在の就職活動には明らかな断絶があると強調する一方で、現在にばかり着目し、過去には一切目を向けていないからです。
「現在」を作るものが「過去」の積み重ねだから形としてはそう間違ってはいないかと。
大企業ともなれば数百数千という単位の中で「ありのまま全部の私を見てくれ!」というのはあまりにも非現実的な話だろう。
それは自分というものを見直してアピールしやすいようにするのと同時に
それを採用側の都合に合わせて限られた時間と人的リソースに応じてPRする、というのが一般的だろう。
特徴と弱点に対してさらに「ありのままの自分」を受け入れてもらえる企業
もしくは「自分を歪めても」入りたい企業を選択するのは就職活動をする当人の自由である。
要は学生生活が終わり、いろんな企業ないしはそれに順ずる集団に属しようと考えたときに
どこまで自分を歪めてもいいのか、という妥協点の模索が就職活動における企業選択ではないだろうか。
妥協する際、自分を歪める手段として「自己改革」を選択するのはもちろん自由だが
自分で自分を改革しといて「私は迫害されている!」というのはお門違い
だったら改革しなければいいわけである。
http://d.hatena.ne.jp/nagano_haru/20100124/1264349181 全体の論旨の言わんとしていることは、とても痛いほど分かります。昨年、自分が就職活動を実際にやってみて体験して同様のことを感じまし...
なぜならば、「就活」に対する多くの論旨は、過去と現在の就職活動には明らかな断絶があると強調する一方で、現在にばかり着目し、過去には一切目を向けていないからです。 「現...