まぁこれは当たり前。
たとえば「責任」英語にすると「responsibility」日本語にすると「応答・能力」
なぜ、そうするのか、なぜそうなったのかという問いに答えることができるというのが責任。
たとえば「企業家」英語にすると「entrepreneur」日本語にすると「主体性をもってなにかをなしとげること」ってだれかが言ってた。
たとえば「リベラル」英語にすると「liberal」日本語にすると「自由」って思うだろ?
忠恕って言うのは相手のことを思いやること。
曲解になっているんだろうな。と最近よく思う。
言葉そのものの持つ素晴らしいと思える概念は、国の文化や人を通すことによって変容して
それはそれとして受け入れられて浸透していく。
過去に異なる概念で書かれた文章も、その時々に即した概念で解釈されていく。
私の見方は過去のものなのか未来のものなのか。マイノリティなのかメジャーなのか。
考え方に矛盾があると、それを自分の中で正していくことで大抵はシンプルになっていくものだけど、
私の立っている環境は多かれ少なかれ矛盾を含んでいるものなのだ。
私の考えは私の周囲のこの部分と同じだけど、そこは違う。
そう思うのは当たり前のことであって、恥ずべきことではないし、損なわれることでもない。