2009-09-13

メシウマ”の醜悪性と“自己責任”に縛り付けられた社会

私はメシウマというコメントが大嫌いだ。見るだけで気分が悪くなるし、絶対に使わないように心に決めている。

この言葉には呪いが込められていると思うのだ。

似たような場面、例えば誰かの失敗を知った時や何かしらの事件の速報などで使われているネットスラングには、『プギャー』とか『プゲラ』(もう死語?)なんかがあるように思う。

これらはまだ大丈夫なのだ。見ても笑っていられる。それほど気分は悪くならないし、嘲笑のレベルに限度が見受けられるように感じる。「それくらいしといてやれよ」と余裕を持って思える。

でも、私にとってメシウマは違う。確実に悪意が滲んでいるように思えてしまうのだ。もしくは、悪意が滲んでいるニュアンスだけを切り取っているように感じられる。

この言葉が出る以前に使われていたであろう『プギャー』『プゲラ』等の言葉にも、使用者によっては現在メシウマと似た意味を持たせていたこともあっただろう。

でも、同じくらいの比率で、嘲笑が、『馬鹿だなあ』と苦笑するようなニュアンスが込められていたのではないか。変な言い回しになるけれど、以前は温かみのある罵倒だったのだ。

けれど、現在散見されるメシウマには、そういった温かみを感じられない。人によっては感じる人もいるのかもしれないけれど、私にはどうにも無理だ。

だって、メシウマには『誰かの不幸で今日も飯が美味い』というのが原点にあるのでしょう?

聖人君主を騙る気はさらさらないし、こういった感情を持たないなんて言わないけれど、それを誰かに伝えることや表現することは甚だ醜悪だと思う。

メシウマというコメントにはモラルがない気がするのだ。

そして、このメシウマ発言をする人が併せ持つキーワードに、『自己責任』がある(もうひとつは、自己が所属しているだろうグループ良心を求めるなというもの)。

これだけ祭り上げられているのには本人に原因があるからだ、という論法だ。過ったその人こそが悪いという口上。

確かにそれは間違いではない。火のないところに煙は立たない。人が面白おかしく群がるには、それなりの理由がなくてはならない。

しかしながら、ちょっと待って貰いたい。何事にも限度があると思うのだ。追求する限度を設けてやってもいいのではないのか。

最終的にどこで線引きをするかの問題だから、嫌なら見るなと片付けられてしまうかもしれないのだけれど……。

ただ、行き過ぎた自己責任論は、いろいろなところで談上に上っている規制論とは違った角度から、社会を生きにくくさせてしまうと思う。

寛容になることはまたちょっと違うかもしれないけれど、緩やかなグレーゾーンがあるからこそ、人は生きやすいのだと思う。

なら、そう言うお前がメシウマを許容できるよう寛容になれって、グレーゾーンを広く取れよと言われてしまうかもしれないけれど、芸能人とかネット炎上した人とかがいつまでも叩かれるのが自己責任だからって簡単に帰結してしまうのは、少し厳しすぎると思うのです。

刑事事件の犯罪者に対する量刑の如何についてとか、出所者に対する人権の問題とか、いろいろ話は大きくなってしまいそうだけれど、やはりどこかで許すことのできるラインが必要ではないでしょうか?

……ならば、コンクリ事件の出所者も許すのかと問われると、うーん……難しいのですけれども。

過ちと罪は同等なのでしょうか?

過ちは許すことができるのではないでしょうか?

そうしなければ、過ちに対する憎しみは消えないのではないでしょうか?

罪は裁かれる。過ちは許すしかない。そして、人は、人にはどう対処すればいいのでしょうか。

途中から想定される反論に答えられなくて、更には最後の方、話が大きく飛躍した上に疑問だけ残って蛇足になってしまいました。

なんかすみません。ごめんなさい。

謝るくらいなら書くなってね。

もう終わる。

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