静まり返った地下鉄の中ほど、ヘッドホォンから漏れ出す音楽が鬱陶しく思える場所はないと思う。
読んでいた文庫本から目を上げた僕は、向かい席にだらしなく座っていた青年をじろりと睨みつけた。
絶対に歩く時に踏みつけてしまうだろうダボダボのズボンに、意味など分かっていないだろう汚い英語がプリントされたTシャツ。
夏なのにニット帽を被っていた青年は、くちゃくちゃと不躾に口を開きながらガムを噛んでいる。
唐突に、彼のヘッドフォンを外して、耳元で「迷惑なんだ」と叱ってやりたくなった。隣の若い女性も居心地が悪そうに身体を縮めているのである。
ここはお前の部屋じゃないんだ!
脳内で叫ぶと、情けなさに嘆息が漏れ出しそうになった。歯がゆさを噛み締めながらも、再び文庫本に目を戻す。
打ち寄せる波のように入れ替わる乗客の雑踏に、しばしの間読書を中断せざるを余儀なくされた。
その流れが落ち着いてきた頃に、左端から杖を突いた老婆が歩いてくる。
目指しているのは、どうやら青年の左隣に空いた座席のようだ。
歩きづらそうだと思いながらも、僕は歩みの遅い老婆の姿を目で追っていた。
ああ、もうちょっとで座れる。そう安堵を覚えたときだ。ずかずかと息を巻いてやってきた中年女性が、どしんと席に腰を据えてしまった。
再び動き出す地下鉄。
振動に、心もとなさそうに立ち尽くす老婆の姿が哀れに思えた。同時に、胸の中で中年女性に対する憎悪が煮えたぎっていく。
誰がどう見ても、老婆が席に座ろうとしていたのは明らかだったのだ。
周囲に目を配らせてみれば、同じような思いを抱く人が厳しい視線を中年女性に投げかけている。
にも関わらず、彼女はせっせとハンカチで汗を拭い始めていた。視線には露ほども気が付いていない様子である。
行為を、僕は甚だ醜悪だと思った。
「あの、よかったらこの席座ってください」
どす黒い感情に包まれていたときだった。爽やかな声が響いた。ヘッドフォンの青年が席を立っていたのである。
突然の申し出に目を丸くしていた老婆は、やがて事態を飲み込むとにんまりと笑って御礼を言った。
ゆっくりと腰を据えた老婆の隣で、中年女性が大きく腰をずらしたのが見て取れる。
気分がよくなったところで、再び視線を文庫本へと移動させる。どういうわけか、耳の飛び込んでくるヒップホップの音楽が心地よく聞こえてきた。
こういう音楽も悪くないのかもしれない。
そう、調子よく思いながらも、僕は浮かぶ微笑をどうしても隠すことができなかった。
明々と照明に照らし出された車内では、青年以外の人物が優雅に座席に腰掛けていた。
名文を書いたつもりだったけどブクマをもらえなかったでござる、ってことですね。
ここ数日で五編の掌編を書いてみたわけだけれど。 思ったことと、お礼なんかを列ねてみようと思う。 まずは第一作。「裕福な扉」 http://anond.hatelabo.jp/20090711032230 題目なんか考えずに...