別に泣いたっていいじゃない!という記事。↓
http://d.hatena.ne.jp/kobeni_08/20090705/1246760664
うちの息子は0歳だけど、泣いてばかりいる。彼はまだ言葉を持っていないから、「快」以外の感情はすべて「泣く」ことで表現される。しかも本人は、沸き上がる感情に対しほぼ条件反射的に泣いている。なぜ泣いているのか、本人さえあまり分かっていないように見える。……だから、そこに言葉をつけて、悲しみの理由を述べたり、なぜ涙が出てきてしまうのか、自分で理解したりするには、けっこう時間がかかりそうだ。……そこを「説明できないのか。なら泣くな」といったようにスキップするとどうなるかというと、
「泣くのは恥=悲しみを感じるのも恥」
子供の頭の中で、こんな風に短縮されてしまわないのか。
「人は悲しいから泣くのではない、泣くから悲しいのだ」的な話を思い出した。たしか昔の心理学者の説だったような…。
詳しい話は知らないが、簡単に考えても、「悲しい」ことと「泣く」ことの関係は、そう単純なものではないっぽい。
「泣く」ことは客観的な観察の対象になるけれど、「悲しい」ことはどう考えても主観的なものからだ。
「悲しいから泣く」、「寂しいから泣く」、「情けないから泣く」、「悔しいから泣く」
これらの表現は、実際の因果関係を表しているというより、一つの物語を示していると言った方が正しい。
言葉を持たない乳児からすれば、「泣く」というのはいつも突如として現れる「不快」に対する反応であって、そうした理由=物語なんかないのだろう。
少なくとも外から見てる分には、彼らはただ周囲の大人に不快を取り除いてもらうために、泣いているように見える。
そして周囲の大人が「不快を取り除く」のと同時にするのが、「彼が泣いた具体的な理由=物語を与える」ということである。
「おなか空いちゃったね~(痛かったね~)」
「○○ちゃん、寂しかったね~(悔しかったね~)」etc.
そう考えると、「理由を説明できないなら泣くな」という父の言葉は、あんがい教育的なものだったんじゃないかなぁと思う。
「ただ単に泣く」ということは、「不快を取り除いてもらう」だけでなく、「周囲が理由を与えてくれるのを待つ」ということでもあるからだ。
もちろん「泣くな!」とは言わないで、「待ってるだけじゃなくて、自分から理由を物語りなさい」という方に重点があったなら、より教育的だったのかもしれない。
でも、「泣く」ことを「説明する」ことで許すという方針自体は、わりと理に適っている。
まぁ、もともと上の記事の問題意識は泣くことの禁止に向けられているわけだけど。
無理矢理まとめると、泣くという反応の戦略性をどれだけ物語に昇華できるかということが人間的な魅力にも繋がる、ということだと思う。
「おなか空いちゃったね~(痛かったね~)」 「○○ちゃん、寂しかったね~(悔しかったね~)」etc. これは答えを与えているというより、「泣くことに物語(理由)をつける訓練を...