2年ほど前に家庭内で色々とあって、自分の銀行の通帳と数着の着替えだけを持って家を出た。今から考えると、保険証とかがあれば少しは違ったのかもしれない。メンタルな物でないだけまだマシなのだけれど、持病の治療は放棄してしまった。もちろん保険適用外で医者にかかる余裕は無い。仕事があり、裕福とは言えないまでも日々の生活に困るほど貧困に喘いでいるわけではないし、住処はあって数ヶ月に一度は連休もある。本当はもっと連休をとっても良いらしいけれど、やる事が無いから数ヶ月に一度。
私の家族は、私の事をお荷物として認識していたように思う。事実、持病の症状が酷かった頃は完全にお荷物だったし、私が親であれば同じように「今まで使った学費を返せ」とか「ぶっ倒れても良いからフルタイムで働け」とか言いたくっていたかもしれない。でも、当時の私にはそれが苦痛だった。当時考えていたのは「これ以上親から罵られ続ける日々を送るのは堪え難い」という事だけだった。それならのたれ死ぬことになろうが、短い期間でも家族と断絶した生活を送りたかった。それだけで、少なくともその時よりは心穏やかに日々を過ごせると確信していた。
性風俗に関わってみたり、それより少しだけ一般的な仕事に移ったりとフラフラしつつ、今生きている。家を出たときに携帯電話は廃棄して、今はプリペイドの物を使っている。家を出たきり、一度も連絡を取っていないので、自分がどうなっているのか家族は全く知らないはずだ。今後、私から家族へ連絡を取る事はきっと無いだろう。手元には私がどこの誰なのかが分かるような物が無いから、仮に私がどこぞで死んだとしても、家族に私が死んだ事実は伝わらないと思う。
だらだらと無目的に生きる生活は、楽しいと言えば楽しい。職場の同僚と酒を飲んだり、常連の客と世話話をしたり。ただ、「今何をやってるのか」と聞かれると何とも答え難い。家族の中で否定され続ける事が嫌で家を出て、家族との関係は完全に無くなり、ひとまず当時の苦痛は無くなった。ほとんど何も持たずに家を出るという無茶をやったせいか、不思議とフルタイムで働けている。でも、もう少し若い頃には当たり前に持っていたはずの「一番やりたいこと」がいつの間にか無くなってしまった。仕事は生活のため。じゃぁ生活は何のためかと考えると、現状では「死ぬだけの覚悟が無いから」とかそれくらいの意味しかない。なんせ身分を証明できない状態だから何をするにもどこかでインチキしなきゃいけない感じで、そもそも出来る事が少ないし、その面倒臭さを考えると大抵の事をやろうと思わなくなる。
今何を望んでいるかって、それすら最早明確でない。自分の生活をどう改善したいとか思えなくなってしまった。眠って、そのまま目が覚めないような終わり方があればそれが一番なのかもなあ、と思う。今の生活は一日一日になにか具体的な苦痛を感じる事が無いとはいえ、これが延々とどこかで破綻するまでずっとループするのかもしれないと考えるとぞっとする。大きな希望や楽しみや目標が全くない、しかもいつか必ず破綻する事は確実な無意味な日常を、ただ延々と消化しているんだなあと考えると、明日にでも破綻するのが良いとも思う。
ただ、積極的に死を望んでいる訳でもない。そもそも人に迷惑をかけずに死ぬ方法を知らないし、知ったところでそれを行動に移す勇気もきっとない。家族から逃げたのと同じように逃避するのが精一杯だろう。
たまにふと、あの家から出て行かない方が良かったのではないかと思う事がある。当時は死ぬか家を出るか位の勢いだったのだけれど、今になってみると家族からお荷物扱いを受けていた事でさえ、家族の中に居場所があったという事と同じだと思えてくる。今の私はきっと、決定的に人から必要とされていない。家族のように、一度は前提として与えられる場所でなければ居場所は無いのかもしれない。
あなた、疲れてますよ。