2009-06-18

主観的で、絶対的な世界において。

 元々なかったものだし、いずれ消えることも確定的だ。となれば、それに固執することは無意味だ。得る前から失うことが決まっているのだから、失いたくなければ、求めなければいい。 

 ありのまま、観たまんまを「うつくしい」と言えればそれで十分なんじゃないのか? 猫は、未来のことが考えられないらしい。脳にそのような機能がないと聞いたことがある。未来へと想いを馳せるのはいいけど、今、目の前にある景色を観れているのか? 未来は、妄想でいいんだ。現在を楽しく生きるための妄想で。「僕」という主体、「君」という主体が生きている現在がいちばんたいせつなんだ。未来現実的に考えるのは、未来が「現在」になった時でいい。主体を持つ人間である以上、いつまで経っても現在にしか生きれないんだから。

 「僕」という主体から覗く、主観的な世界は、「僕」が居れば、僕にとって絶対的なものだ。だけど当然、僕自身はそうではない。時に、ほんの少しの外的要因で消えるほど、脆い。考えるほど、自分がゆらぐ。ゆらいでもいい。僕も、「元々なかったものであり、いずれ消えるもの」だ。それが本質的に理解できた時、世界の全てはうつくしいと素直に感じれる気がする。所有する喜びは一瞬、所有しないうつくしさは永遠なのだ。

 現在を担保にして不確定な未来を埋めるよりも、主観的で絶対的な「僕」以前の世界を見つめた方が有意義なんじゃないかなー。

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