2009-06-07

差別人権に関してのちょっとした感想2

レイプレイ問題」はまだ続いている。まだ続く、ということは、言ってしまえば「統一見解が出ない」ということだろう。もちろん、万人が万人完璧に首肯する、というような見解などないとは思う。が、それなりにみんなが合意するという程度のものでもできるなら、それで大多数の人間にとっては「終わり」だ。残念ながら、この問題はまだそこまでいっていないと考える。というより、どうせまたみんな飽きて話さなくなるだけなんだろうな、と思っているのだけれど。

ところで、この件に関してものを論じるとき、少なくとも「エロゲやる派(+エロゲ作る派)」と「規制人権守ろう派」は全く対等の立場にない。

エロゲやる派」たちは規制話前の時点ではおもに「どのエロゲが面白いか」「エロゲを面白くするにはどうすればいいか」「売れるエロゲを作るにはどうすればいいか」を考えていたのであり、人権のことを考えていたのではない。人権を踏みにじれば踏みにじるほどエロゲが面白くなる、売れる、というのであれば話は別だが、無論そんなことはない。踏みにじってもつまらないものはつまらないのであり、踏みにじるのをやめても面白いものは面白いからだ。

だが、「規制人権守ろう派」は違う。彼らは以前からずっと「人権」について考え、以前からずっと存在する「人権侵害」について考え、以前からずっと「人権問題」の解決法を考え、結果として「表現の自由規制するのが妥当である」とたどり着いたのであるはずだ。「人権についてもっともスタンダードとなるスローガン」は「自由・平等・博愛」だろう。その「自由」を規制しようというのだ。それを熟慮のうえの熟慮でもなしにいう、なんて考えられない。フランス革命から200年、彼らは連綿と議論を重ね、論考を生み、検討し、考え抜いているはずである。

しかし、実際はどうか。彼らの意見はそれほどまとまっているのだろうか。まとまっているのであれば、「彼らは大筋合意せざるを得ないような論」がでるのではないか。彼らの意見は考え抜かれているのだろうか。考え抜かれているのであれば、異論などたやすく・決定的に論破されるのではないか(むしろ、歴史事実を直接示すことができない歴史論争より、はるかに論破はたやすいのだと言ってもいいだろう)。

そうなっていないとすれば、原因は3つのどれかと考える。

1:論者はみな、頭が決定的に悪い。

2:人権思想に根源的な穴があり、彼らが論拠にしている文献に穴がある。

3:彼らは単に自分のやりたいことをしたいだけであり、人権はただの間に合わせの道具に過ぎない。人権についてまじめに考えてなどいない。

原因が本当にはどれか、は知らない。ただやはり、彼らが信用するに足るだけのことを言っているようにはいまだに思えない。

余談。

これは規制派とはいえないようだが、以前http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20090529を引いた。「豚言説」だの「ゾウリムシ脳」だの「豚臭い強者」だの、といった発言は明らかに人権に反すると思う。

頭が悪いやつを罵るな、というのではない。頭の悪いやつめ、と言いたければいくらでも言えばよい。だがここでは、こいつらは頭が悪いから豚やゾウリムシとみなす、と言っているのだ。顔が長いから馬面だ、鼻が上向いているから豚だ、という比喩でもない。豚の、ゾウリムシの特徴になぞらえているのでもなく、ただ人間以下のランクだと言っているのである。「人間としてみなしたうえで劣った扱いをする」と、「人間(のもの)としてみなさない」。後者がはるかに悪質かつ差別的であるはずだ。

すべての言及を読んだわけではないが、とりあえず当該エントリへのはてなブックマーク現在159users。その中にこの差別を難ずるコメントはない。差別を看過しない「信用するに足る人権派」はどこにいるのだろう。

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