2009-04-19

ミサに参加した

 宗教を信じられるのって、人を愛せることは根本は同じだと思う。私はいつも人の言葉の裏に悪意を勝手に読みとったりと、人を信じることができず、また「誰かを愛する」経験を持ち合せていなかった。親すら見くびっていたので。誰かのために何かをしてあげたいって思ったこともなく、このまま人格的欠落を抱えたま死にたいとばっか思ってた時間の倍以上をすごすことになることを想像すると怖くなって泣きだしてしまった。

 で、なんでもいいから信じる体験をしてみようと思って近所のミサに参加した。途中参加なので流れもわからず、みんなが何歌ってるのかもさっぱりわからない。とりあえず、まわりの気が散らないように浮かない努力だけはした。

 中途半端な理解ではキリスト教は死んだ人間蘇生を信じている。なわけねーよwと思うところだが、教会にいる時間だけはそうなんだ!人間て何があるかわからないんだね!と思い込むことにした。20年来のひねくれが、一瞬だけど素直な性格に更生できたような、そんな心が軽くなる体験だった。それにこの場にいる人は同じもん信じてて、偽善だろうが私が死んだ時も心を痛めるくらいはしてくれるんだと思った。そしたらちょっと孤独感も埋まった。

 もう少し宗教を持つことがフツウなら、日本人自殺率は下がるんだろうなあ。

  • 一人の生き物として、また知性体として、 生きることの意味を考えることを丸投げするよりも自分で理解したいと思わないか。 死んでも良いほど幸福な目に遭うとか、死にそうな目に遭...

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