人工中絶の是非に関するエントリ「マザーテレサは間違えている」http://d.hatena.ne.jp/kaien/20090318/p1について。端的に言えばこのエントリには重要な見落としがある。それは「人は必ずしも自らの権利を行使できる主体ではない」ということだ。
権利は行使されるためにある、と言えるのは、祝福すべき幸福な人々だけである。多くの人にとって権利とは、私の所有物であって私の所有物ではない。強いて言えば私から奪い取ることが定められている誰かの為のモノなのだ。私の問題とは、せいぜいその搾取にあたり私の同意をどの程度顧慮してくれるかとか私の犠牲はどの程度感謝されるのかということでしかなく、あるいはその搾取の仕方があとう限り痛みの少ないやり方であってくれればいいなと願う、その程度なのだ。たとえば飼い猫に餌をせがまれる程度の甘美な搾取であれば多くの人は苦笑いで済ませるだろう。我が子の教育費用ならば、年老いた両親へのプレゼントならば。時には見知らぬ誰かのために募金する程度の良心なら持ち合わせなくもない我々は、アイドルタレントという名の客引きに袖を引かれ、気づかぬうちに大金をボッタクラレていたとしても笑って許してしまう程度には寛大だ。だが、それが我々の尊厳や生存そのものに関わるような搾取であったなら?
……それでも我々はしばしば許すのだ。どうしようもない男に引っかかる女のように。寂しく笑って仕方がないのと呟くところも、いいところもあるのよといいつつ良い所なんて思い出せないけどなと思いながら、そしていつか報われる日が来るかもしれないという根拠無き希望にすがる……人間とは本当に弱い生き物だ。
堕胎が普通に合法化されれば、何が起こるだろう。あらゆる女性は心痛むことなく自らの身体に対する所有権を回復できるのだろうか?否、断じて否。
堕胎が普通に合法化されれば、そこで多くの男性は心痛むことなく、自らが《所有》する女性たちにこう告げるだろう。
『私はその子どもが不要なので堕胎しなさい。あなたの意志で。』
私の権利を私のために行使できる人間は、その時点でそもそも他の多くの人間に比べて相対的に幸福である。kaien氏は「自分の権利は自分のために行使できる」という女性のために、心優しくも「彼女らの権利を回復すべきだ」と訴える。だが私は言いたい。kaien氏よ、マザー・テレサが見ていた人々は、そんな強く祝福された女性たちではないのだ。もっと弱く、果てしなく愚かで、何も持たずそしてたった一つ持っている身体さえ搾取され続ける女性たちなのだ。悲劇と向かい合う覚悟を今からしなくてはいけない女性たちではなく、何一つ覚悟も無いままに悲劇そのものを人生として生きざるを得ない女性たち。あなたの論にはその視点が決定的に欠けているのではないかと私は思う。