土芥寇讐
孟子・離婁篇下に、"君之視臣如土芥 則臣視君如寇讐"とある。
君が土やごみのごときに臣を視れば、すなわち、臣はかたきのごときに君を視ると読む。
人の上に立つという事は、自分の身代わりに尻尾として切り捨てられる人を作る事でも、自分を支えてくれる人を集めるという事でもない。わざわざ人を束ねてまでして、やらなければならない事をやる為に、人を集め、人の上に立つのである。そうでなければ、臣を軽んじ土芥の如くに見るようになり、君臣の関係は消滅してしまう。
大義を持ち人を束ねる者を君と呼び、大義に沿って働く者を臣と呼ぶ。大義を持たずに人を束ねる人を賊と言い、上下の関係は禽獣と同じで力の差しか無いとなる。
まともな人ならば、一度でもそれをやったり、それをやった顛末についての記録が歴代当主の日記など(cf.[2003.7.26])で残っていたりすれば、一族郎党の生存の為などの切羽詰った状態でなければ、それをやろうとはしない。だが、全ての人間がそういう教育を受けているわけでもないし、受けられるわけでもない。偉くなりたいという思い込みだけで突っ走る人も存在する。
戦後の平等教育においては、人を組織するのは秩序の為であり、契約によってのみ雇用関係は存在するとされ、主従関係は否定された。仕えるとか供するといった概念が否定されたのである。その状態で、わざわざ人を束ねてまでしてやらなければならないような事というのは、存在しない。束ねようにも、そこにあるのは契約された関係だけとなり、人を束ねてまでしてやらなければならない事に、正義や道理や誠といったモノは必要ないとされてしまった。つまり、大義が果たされてしまうと、その後は、契約を守る事だけが必要とされ、その手段は、組織の実存によって正当化される。官僚機構の肥大化や、資本と宣伝の力を利用して先行者が切り開いた市場を根こそぎにして利益を追求するといった企業の巨大化は、この理屈の実体化である。
雇用契約を守る為に利益を上げる事や、雇用契約を有利にする事が実績とされる状況では、組織の存続の為にあらゆる行為が正当化される状態となり、歯止めがなくなる。
生存する為だけならば田んぼや畑を耕していれば良いという人を、組織して働かせるには大義が必要であり、それを持ち、人に訴えられる人が頭領となるのに比べ、生活の為に賃金を稼がなければならず、労働力を切り売りするしかない労働者を契約だけで集めた組織は、大義など必要としない。それだけに暴走しやすい。そういった組織のトップは、その組織が社会に対してどのような存在になるべきかの、明確な意思を持っていなければならない。烏合の衆の風見鶏に過ぎないのであれば有害であるし、労働者に階層をつけ、派遣は低賃金で使い捨て等とやっているのでは、害毒でしかない。
社会が平等であることは良い事ではあるが、無能な凡人の拡大再生産になりやすく、しかも、凡人の組織が巨大化してしまうと、組織の存続の為に周囲に迷惑を振りまくようになる。
大義を果たした後に、新しい大義を思いつけず、しかも、解散もできない組織が、見苦しくのた打ち回った挙句に自壊する時に、どれほど社会に迷惑をかけるかを考えなければならない。
功よりも罪の方が人の記憶には残り易いものである。