手段は結果で評価するしかないとおもうが。
ちがうだろうか。
結果には過程で傷ついた人も含まれるだろうけど、総合して手段を結果で評することの何が問題?
無論、手段は結果によって評価されることとなるだろうけど、そこに至るまでの過程に適正さを求めることは変なことじゃないのでは?
法治国家に求められる適正なプロセス・制度を十分に尊重した上での福祉の縮減と、「民意」を盾に、適正なプロセス・制度(とされてきたもの)を軽視した上での福祉の縮減では、両者を「結果」だけ見て同様に評価することは出来ないと思うなあ。で、引用されたブコメの主旨は、後者のやり方が、そうやって得られた結果以上の大きな何かを毀損する可能性がある、という危惧なんじゃないかね。橋下知事が福祉・教育予算の効果に対する無理解と痛罵を繰り返し、かつ法治国家にあるまじき独自の視点から行政について語ったことは事実なわけでしょう。それが政治家として望ましいやり方か、ということが問われるのは納得行かないことかな、そんなに。
今までの橋下氏のやり方って、使いようによったら「民意」を盾に適正なプロセス・制度(とされてきたもの)をすっ飛ばし、少数派の意見を封殺する手法に使われうるわけで(ってゆうか既にそういうやり方に使われてるんじゃないか―というのが橋下知事批判者の意見だと思う)、そういう手法に対する疑問を一切持たないのであれば、それは法治国家・民主主義国家の人間としてはマズいんじゃないかなあ(俺も生半可な理解しかしてないから、自身を持って断言はできないけどさ・・・)。
「民意」が常にまともであるとは限らないわけで、それがうっかり暴走して自分やどこかの誰かを不幸にするかもしれない・・・そう考えたら、手放しで橋下知事の手法を肯定は出来ないよ、俺は。どこまで行っても、それは「結果として」上手く行っただけだよ、ってことは言わなきゃならんと思う。もし「民意」がそれを望んだときに、自分の「福祉」「権利」が大きく損なわれようと構わない、というほどには俺は割り切れないから。自分がマイノリティになったとき、切り捨てられてもオッケーって、胸を張って言う自信はないよ。それに、その「結果」にしても、長期的に見て肯定的に捉えられるかどうかは未だわからないわけだしね。
橋下知事の支持者の中には、その辺を割り切った上で知事を支持しているというよりは、自分達に被害が及ばないから、既得権益層が痛い目を見るだけだから支持している、という雰囲気が感じられることがあって、ちょっと嫌な気持ちになることがあるな・・・全員がそうだとは言わないけど。まあ、苦しんでいる人間を横目に楽をしてきた(ように見える)人間が懲らしめられるのを見るのは、「公正」を求める府民には嬉しく思えるのも分かるけどさ(だから、橋下知事の支持者を一括りにしてストレートに罵る気にはならん)。
破綻したらすべて失うのにね。
元増田だが、全体的に同意。 私が言ったのは、結果によって手段の評価が変わった人を「度し難い」とする点ね。この結果は評価に値しないという論ならわかるが、結果から手段の評価...