秋葉原通り魔事件は単なる半狂人による特殊な犯行ではない。宮崎勤幼女殺人事件、オウム事件、酒鬼薔薇事件と続くこの20年の社会の闇の部分──若者達の不満や怒りを見据えないと、事件の真相は見えてこない。『現実でも一人。ネットでも一人』という絶望的な状況で人は脱社会化するしかないのか?
【出演】宮台真司(社会学者)、東浩紀(哲学者/批評家)、切通理作(評論家)、雨宮処凛(作家)、他
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「現実でも一人。ネットでも一人という絶望的な状況」という思いに至ってしまうことが絶望的だと思うんだけど。
交通事故に巻き込まれて死んでいく人がいることを思えば
それは日常を送っているという平和な状態なんだから
「「私」にとって絶望的だと思うんだけど」と正確に言うべきだろう。
じゃあ「僕ら」にとっては?
いや、ここも「僕」と言うべきだろう。
僕には、そのような逆説――「絶望的な状況」という思いに至ってしまうことが絶望的――の提示がすでに息苦しい。
むしろそれこそが「絶望的な状況」を余計に封鎖するように感じるから。
なぜなら、絶望に絶望することなんてできやしないから。
絶望の脱構築なんて論理的に不可能なんだよ。
メタレベルの絶望を述べたところで、僕はそのレベルで絶望してるわけじゃないんだから。
彼は僕のあずかりしらぬ絶望について、上のほうで何やらぶつぶつと呟いているだけ……。
彼の声を僕はよく聴き取ることができない。
僕らにだってできないだろう。
彼の逆説が語ろうとしている何事かは、僕らには決して届かないだろう。
結局のところ、彼は、「私は絶望しているあなたと違って絶望していない」というふうに、
彼の「私」を確認して完結しているに過ぎないのだと思う。
言うまでもなく、僕らは日常的にひとりひとりである。
それは、僕とあなたは違うということ。
「僕ら」とは僕僕僕……僕だらけっていう複数形ではなく、僕とあなたは違うという意味。
「僕ら」や「私たち」は、僕や私が一人きりであることを完璧に表す人称だと思う。
もちろん彼の言うように、「現実にひとりでただいることなんて何も絶望的じゃない」んだよ。
絶望の本質とは希望が絶たれること。ただそれだけだ。(かの哲学者の言う、死ぬことすらできない絶望だってそうだ。)
彼もそのことは理解しているだろう。
だから彼も希望について語っているのだ。
「交通事故に巻き込まれて死んでいく人がいることを思えば」と彼は言っている。
「交通事故に巻き込まれて死んでいく人」が彼には必要なのだ。
「交通事故に巻き込まれて死んでいく人」が彼の希望だから。
これは『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』式の希望だろう。
つまり、主人公の少年がライカ犬の不幸を必要としていたような希望。
またこれは「「絶望的な状況」という思いに至ってしまうことが絶望的」と同様の希望だろう。
なぜなら、逆説とは常にメタレベルから発せられる天上の声だから。
逆説を唱えた途端に、彼はまるで魔法にかかったかのように飛翔する。
それを呟きつづける限り、彼は落下することはない。
そして、彼の声が僕に届かない限り、彼は落下することはない。
ここに希望がある。
ここに彼の希望がある。
僕の絶望がある。