http://anond.hatelabo.jp/20080609110751 を読んで。
まるで赤子の叫びを見ているようで、読んでいてひどく心が痛んだ。
「いじめられて自殺するくらいなら苛めたやつを復讐する」なんて考えを持てるような奴は、いじめられない。
いじめっ子だって復讐されるのが怖いのだから、相手を見ていじめるからだ。
「いじめられて自殺するくらいなら苛めたやつに復讐すればいいのに」
という言葉を理解できるようになるのは、危機が去った後だ。
いじめの真っ最中に「復讐」なんて気のきいたことは思いつかないし、
思いついても身の危険を感じてなかなか実行できない。
成長してからの「それでも復讐すればよかった」なんて後悔は、なんの役にも立たない。
ただ、「手遅れ感」が残るだけである。
増田は、この「手遅れ感」を「レイプされた」と表現しているのだろう。
密閉された「人形」の中でうごめく「手遅れ感」という負の感情。
この負の感情を昇華するためには、他者という「外界」が必要である。
もしかすると、加藤容疑者にとってこの外界へのgateが、「秋葉原」であったのかもしれない。
加藤容疑者は、掲示板に「『誰でもよかった』 なんかわかる気がする」と書き込んでいたらしい。
社会から隔絶すると、「他者」はひどく抽象的になる。なぜなら、目の前には誰もいないからである。
(ちなみに、ここで言う社会とは、「自分をよく知る人が周りにいる状況」のこと)
この教えに沿えば、いじめっ子は咎められ、いじめられっ子には何らかの救いがあるはずだ。
にもかかわらず、目の前で「いじめ」が行われていても誰も助けてはくれなかった。
彼はこの「価値観の嘘」に苦しめられたのかもしれない。
だからこそ、彼はこの「価値観の嘘」に対して対話しようとしたのではないか。
たとえ狭くとも、いじめを受けていた世界は彼にとって「全世界」であった。
そして、社会を隔絶した彼にとっての外界は「テレビの中の世界」であったのかもしれない。
早い段階で社会を残絶し成長する機会を失った彼が取れる行動は、まっとうな対話ではなく、「ヒステリー」であった。
(掲示板への書き込み「夢…ワイドショー独占」(午前2時48分))
彼は「世界の中心でアイを叫んだけもの」となることで、「他者が注目してくれる自分」を確認したかったのかもしれない。