2008-03-27

思考のドツボ

 なんというかおれの歪みっぷりの根底には徹底した自分嫌いがあって、じゃあ、それをどうすれば直せるのか、考えてみた。思考のドツボにハマるとどーにもこーにも危うげになってしまうものだから、なんとかしなければ、と。

 でも、考えてみたら、そんなのとっくに分かっているのだった。おれにはなにもない。なにも成し遂げちゃいない。ただ、ただ無為に生きているだけ。そんな自分が嫌いなのだ。

 だったらとっとと成し遂げりゃいーじゃん、って話だが、では、なにを。そして、それは、なんのために。

 己を肯定するには他者が必要なのだろうか。だれかのために生きることができれなければ、おれは自分を好きになることはできないのだろうか。

 まあ、自分を好きなるとかどうでもよくて、だれかのために生きてみたいなあ、ってのは常々考えていることで。

 その思考の根底には、やはり自分が嫌いだから、この命、自分のためではなく他人のために使いたいっつーぐっちゃぐちゃにねじまがった思想があって。

 どっちにしろおれには他人が必要なのか、と考えると、それはなんだか間違っている気がする。なにかが間違っている。

 おれは。

 違う。

 もっと別の生き方

 思考を形成するために、なにかが足りない。パズルピースキーワード

 それとも、おれは恐れているのだろうか。

 確かに恐れてはいる。

 他者を求めても、他者に否定されたら、おれはどうやって生きればいい。

 一人では生きていけない弱さが、おれは恐ろしくて、だから一人でも生きられる方法を求めて、ぐるぐると思考のドツボにハマっているのだろうか。

 分からない。

 いずれにせよ、答えは出さねばなるまい。その答えが、いかに残酷でも。容赦なくおれの生きる術を奪い去っても。それでもきっとおれは意気消沈しながら新しい生き方を求めて、足掻き、藻搔き、そして、いつの日か。あるいは答えなんて見つからず。死ぬときまで。おれは。ああ。

 こいつは救いがたい病だ。

 ブラック・ジャックでも治せやしない、不治の病。

 どちくしょう恋愛と性欲は別物だって確信したわだって鬱のときは性欲はあったが恋愛欲求はなかったものなそれがどうだ鬱が快方に向かってからというものおれは心の弱さまで獲得してしまったちくしょうちくしょうちくしょうこんちくしょうこんなもんいらないおれに孤独を愛し孤高に生きることのできる強さを与え給えーっ!

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 追記。

社会からの承認欲求」も「恋愛欲求」も大して変わらないと思う。

 社会ってのは具体的になにを指しているのか。数字か。給与明細を見れば満足するのか。そんなはずがない。金か。違うだろう。貧乏だって、そりゃあ極貧は勘弁願いたいが、ちょっと遊ぶ金さえあれば事足りるだろう。

 なにかの仕事に対して、だれかに認められる、そういうのを求めているのではないのか。やり甲斐を求めているのではないか。

 やり甲斐には相手が必要だ。顧客の満足を得るのがやり甲斐なら、意中のひとのために働くのもやり甲斐だ。家に帰ったら「おつかれさま」と言ってくれる女房のいる家庭ってのはひとつの理想だ。

 その「やり甲斐」をだれに対して感じるか、それだけが「社会からの承認欲求を求めるタイプ」と「恋愛を求めるタイプ」の違いじゃないのかなあ。

 だれかのために生きてみたい。それはだれもが共通しているのでは。いちいち社会がなんたらとか言葉遊びしなくても、感情に従えば、一人では楽しくない、だから、というふうに、すっきするのでは。

 やり甲斐のあることが生き甲斐で、最大の顧客は意中のひとで、そのひとのために生きてみたい、けど、どんな答えが返ってくるか分からないから告白できなくて、だって振られたら、また生き方を模索しなくちゃいけないわけで、それはとても恐ろしくて、でも、だからといっていつまでもこの状態というのも苦しいし、どうすればいいのかわからなくて、いや、告白すりゃいーじゃんってのはわかっているけど、そのひととの関係が終わってしまうのが怖くて、んでもって、こんなことで悩んでいる自分が嫌で嫌でしょうがなくて、思考のドツボにハマって、あうあうあー。

 なにを書きたいのかわからなくなってきた、だって自分でも整理できないもん、こんなところに書き込んでいる時点で非モテだと察していただきたい! 女の子と話したり遊んだりしていても、だからってモテだとは限らないんだよ! リア充とは限らないんだよ! ままならないんだよ! いっぱいいっぱいなんだよ! うわーん!

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