2007-11-17

自分や他人を認めて等身大に生きて、妙な偏見がなくなれば学校学校生活も好きになれるものよとカウンセラー先生は言った。そういえることもあると思う。しかしそんな気持ちの持ちようや心理的態度を変えるだけではどうしようもない愛称の悪さもあるのだ。

たしかに、初めのころは俺は偏見でみんなを見ていた。

みんなとのりがあわなくて何か違うなと最初は思っていた。

あいつらと俺は違うと思っていた。

何年かたって、みんなもそれぞれに生きているんだなと認めることができるようになってきた。結構いい人たちなんだなとも思うことも多くなった。

でも、そうやって自分が少し丸くなり、みんなを理解できるようになればなるほど、やっぱり彼らと俺にはのりの違いがあり、反りが合わないのだということも、ますますはっきりとしてきたのだ。

そしてある程度以上は、彼らを好きになることも彼らが多数派を占めているこの学校を好きになることもできないということもわかってきたのだ。

もしもこれ以上に、彼らと俺が距離を縮めて付き合うとすると、俺は彼らに媚を売って付き合うことになってしまう。それは人間の全うな付き合い方とはいえないと思う。もしくは、お互いを傷つけあう壮絶な価値観の戦いの果てに抱き合い認め合う、昔の熱血漫画登場人物のようになるしかない。だがそれは時間的にも手間にしても、場の雰囲気にしても、できないことだ。大体彼ら多数派には馴れ合いの雰囲気しかないのだから、俺一人がお互いを分かり合うためにアクティブな行動に出ても、その行動や態度自体が彼らの雰囲気に反しているために、浮き立ってしまうのだ。

先生、あなたは気持ちの持ちようを変えることに頼りすぎている。また、そんなあなた自身は人の気持ちがわかる人間だと自認している。何もわかっちゃいないくせに。あなたの考えも、態度も、俺に不信感を与える。

にっちもさっちもいかない環境というのはあるのだ。

  • 他人と分かり合えないなんて当然のことを、なんでそんなに意識してるのさ? もっと肩の力を抜けよ。

  • 変えられない環境はどうしようもないとしか言いようが無い。 そしてその環境に負けるか負けないかで初めて幸か不幸かは決まるのだろう。 同情はするが人は平等ではない。 しかし不平...

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