2007-11-07

ケータイ小説を非難する人は、「他人のババア生きる価値無し!」

例えば、ケータイ小説恋空」を読んだ女友達がいたとして。

その女友達から「まぢ泣ける。すごいいい小説だよ!君が読んでるのとはワケが違うよ」と言われたとして。

いくら悪名高いケータイ小説とはいえ、普段小説自体、いや文章自体を毛嫌いしている女友達がここまで薦めてきたら、きっと読むことになるだろう。映画化までされているベストセラーなのだから、なにかしら心にひっかかる素晴らしいものなのだろう、と。

そこで「まぢ泣ける」の言葉を信じ、期待度が高まった状態でケータイ小説とやらを読んでみる。

ところが、残念ながら自分には合わなかったとする。

「度のすぎた口語表現も、主人公の考え方も、行動も、何一つ共感出来ない。

普段”小説”を読まない女友達のような人間には、薄っぺらい騙しのテクニックで感動させられたとしても、私のような活字中毒者は騙せない。

ケータイ小説は、普段小説を読まない人間向けの”小説”…

(いや、小説と呼んでしまうこと自体、本当の小説侮辱することになるのだけど)

であって、私のような活字中毒者が読んではいけないものだ」

と率直に感じたものだから、ケータイ小説感動した女友達に、「合わなかった」とだけ伝えたとする。

後になってネットでの評判を見て、あらかたの人は自分と同じ印象を持ったんだなぁと安心して、今度は、

ケータイ小説なんて小説じゃない!」

と批難し始める。ケータイ小説(笑)なんて、ガキの読むものだ、と。

ケータイ小説(笑)を読んで、「まぢで泣ける小説」と言ってるガキは、完全に頭がいかれてる。ゆとりの弊害。

そもそもケータイ小説(笑)は、小説ではない。

というように、ケータイ小説を非難する人がいたとする。

なんで自分が理解できなかったからって、それを読んで感動した人まで批難してしまうわけ?

どういうものに感動するか、共感するかなんて、人によって違うわけでしょ?

自分の価値観だけで、全てを押しつけてしまうのなんて間違ってる。

ケータイ小説で「まぢ泣ける」と感動した女友達を、ケータイ小説以外の”本当の小説”で感動させることができるわけ?

できないでしょ?

その人を感動させられたという事実は、絶対に覆らない。

文章に興味のない友達に小説を最後まで読ませただけでも、十分素晴らしいものだと考えるべき。

ケータイ小説(笑)は、小説ではない」などと、自分の価値観押しつけることは、例えばこう言ってしまうことと同じ。

いつも優しくて、おいしいものを食べさせてくれて、たまにおこづかいをくれるおばあちゃん。

その大好きだったおばあちゃんが亡くなった。

泣いて泣いて、涙が枯れるまで泣いて、

「どうして?どうして?おばあちゃん…!」

と泣いて…。

本当に悲しくて、もう大好きなおばあちゃんに会えないことが悲しくて…。

そのできごとを友達に伝える。

ケータイ小説を非難する人だったら、こう答えるだろうね。

「はっ?何勘違いしちゃってるわけ?てめぇのババアなんて生きてる価値ねぇんだよ!」

と。

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