三重野校長の話では、男子生徒は授業やクラブ活動でも、無遅刻・無欠席だったといい、同席した担任と自転車部顧問の教諭は「いじめはなかった」と断言。10日夕に下校した際も、特に変わった様子はなかったという。
生徒が自殺したという現実を前に、たとえいじめを全く確認しておらず、実際いじめはなかったとしても、「いじめはなかった」と断言する神経とはどんなものなんだろう。
なにか目に見えない原因があったのではないか。見えないところでいじめがあったのかもしれないし、人にはわからぬ精神的抑圧を受けていたかもしれない。もしかしたら…
痛ましい生徒の死を前に、そういう危惧を抱かないというほうが、いじめはなかったと断言されるよりもよほど恐ろしいことだと思う。
昔に見たテレビのドキュメンタリーで、外国のどこかの学校では、いじめはほっておけばいずれは起こるというのを前提に考えていて、いじめにつながる兆候をつねづね見逃さないように...
はりにひもをかけて首をつっていた。 それまたほっそい紐で首つったなぁ、とか一瞬思ってしまった。 梁ね、針じゃなく。畳針とか想像しちゃったよ。我ながらバカな発想だ。
仮に「断言」しなかったら、どういう展開になるんだろう?
断言しなかったら、「本当はいじめがあったのではないですか」「いじめのせいで生徒は自殺したのでは」と散々マスコミに叩かれちゃうだろうなあ。とりあえず断言するのは、それへの...
テンプレができちゃってるんだよね。 で、あっても「無い」って言ってるという批判が高まってきたので、最近は断言しない言い方「現在調査中です」がブーム 訴訟されても「訴状が届...