隣人がいるか?
そこは完全な答えを求めているかどうかとも関わってくるけど、良い悪い、好き嫌いの判断の理由はなにかという問に完全な答えなんて出せないのが普通。
自分がその時のベストを尽くして出した答えが「完全な答え」(不完全だけど)。なぜベストを尽くさないのか。
http://anond.hatelabo.jp/20070331145821
それは完全な答えではないんだよね。
あくまで最低限のベースラインを満たしているだけだから。
「どうしてカレーを食べるの?」という質問に「福神漬けが美味しいから」と答えるようなもので、
いちおうの答えではあるものの、理由を完全に説明できていない。
http://anond.hatelabo.jp/20070331050353
俺も自分が嫌いな性質だが、別に世の中を恨んだりはしていない。
と言うか
自分が嫌いだと自分の不遇は自分のせいだから世を恨むことは少ないと思うのだが。
親を恨むことはありえても。
どこをどう読んだら「浮気されて嬉しい」になるのか…。
凄まじい読解力だな。
自分がされてイヤな事は他の人にしちゃいけません。
ってよく言われるけど、実際のところ嘘だよな。
嫌なことも好きなことも人によって違うに決まってるじゃん。
浮気を嫌なことだと書いたコメントに、上のように返されたりしたら、
まるで好きだと思う人もいるかのように取れる。
なので、お前は好きなのかと。
読解力なんていらんだろ。
ねこが恋しい昼下がり。
http://anond.hatelabo.jp/20070331141853
浮気云々は別にして一般的な話として考えると、
「自分がされてイヤな事云々」は、
それさえ守ればすべてがうまくいくという十分条件じゃないのよ。
人によって好き嫌いの内容が違うというのはまったくその通り。
では、これがどういう効果を期待しているのかといえば、
「もし万人が“自分がされてイヤなことを他人にしない”という道徳の下に行動すれば、
イヤなことの中身の個人差によって軋轢が起きる可能性はもちろんあるけれど、
少なくとも各々が思っているイヤなことをわざと相手にするという行為可能性は減る」
もうちょっと突っ込んで考えればこうなる。
イヤなことの具体的な内容ではなく、「イヤなこと一般」という形で形式化することによって、特定の誰かにのみあてはまる「○○はイヤなことだからしちゃいけません」じゃなくて、不特定多数一般に対して妥当と見なされる一般的道徳が可能になる。
具体的内容はその都度協議や法廷の上で決定しなければならないとしても、こういう形で形式的な一般原則を立てることによって、特定の顔の見える範囲の人々だけでなく、より広い範囲に対して適用可能な道徳律を立てることが可能となる。
http://anond.hatelabo.jp/20070331141853
http://anond.hatelabo.jp/20070331143346
最低限の指針にすらならんのか。
自分がされて嫌なことは、っていうより、相手がされて嫌なことは、がただしそう。
結構浮気されても気にしないって人もいるから
そういう場合は別にダメじゃないんじゃ
燃えるフリップを書いていた黄色い革ジャケットの人はその通り、炎尾燃こと島本和彦。
その右にいた、岡田斗司夫を細くしたみたいな人は岡田斗司夫です。31kg減量したって言ってた。
最初4:3のテレビでよけいに細く見えたので、誰だかわからんかったよ。
自分がされてイヤな事は他の人にしちゃいけません。
ってよく言われるけど、実際のところ嘘だよな。
嫌なことも好きなことも人によって違うに決まってるじゃん。
わたしはとある人に嫉妬している。全く見知らぬ者同士だが、向こうもわたしのことは知っているだろう。お互い見て見ないフリしてる。そんなその人(Aさん)にわたしは最初は近づきたい、話をしてみたいと思った。だが今では嫌い。嫉妬している。Aさんの方が恵まれていると、Aさんの日記を読んでも感じる。彼女はわたしが持っていないものをたくさん持ってる。ないものねだりしても仕方ないってことはわかっているけど、羨ましくてたまらない。Aさんのブクマを見るだけでため息が出てくる。
今でもわたしはAさんに近づきたいのか。それとも嫌いなのか。自分でもわかんね。とりあえずAさんを非表示設定にしてみた。
Aさん、あなたのことが気になります。でも嫌いです。はっきり言えないのが一番悔しい。