2007-03-10

遺灰

南極に嫁いだ妹が交通事故で死んだので、僕は妹の遺灰を持ち帰るために飛行機南極まで飛んだ。南極は言うまでもなく氷に覆われた場所なので、氷を掘って埋葬するには酷く手間が要る。遺灰から作った珊瑚礁を海の中に入れようかという意見もあったのだけど、結局妹が生まれ育った日本に遺灰を持ち帰ることになった。かさばる荷物だけをまず日本に送り、たどたどしい南極語で妹の嫁いだ先の旦那さんとその家族挨拶をし、そして飛行機に乗った。

南極に住んでから七年。その間妹は正月と盆に帰ってくるだけで基本的には氷点下何十度の世界で過ごしていた。妹自身は結構楽しんでいたらしく、南極で立ち小便すると本当に放尿した瞬間から凍っていくんだよ、というエピソードを書き加えたメールを送ってくれたりした。南極語で氷を言い表す言葉が50近くあるとか、そういう話もメールには書かれていた。南極でさえもインターネットが普及しているというのは考えれば驚くべきことだが、これは東芝が開発したペンギンを使った自家発電機の賜物であるらしい。人の居るところにはどこであっても文明が普及する、ということだろう。

飛行機が赤道を越え、日本に到着する。目ぼしい荷物は全て送り返したのでカバンの中はジャケット南極語に訳された村上春樹小説ぐらいしか入っていない。もちろん遺骨と遺灰の詰まった瓶もある。僕はその瓶を抱きかかえるようにしてタクシーに乗り、そして適当な駅から僕の家に帰ることにした。ある事情により親とは関係が断絶しているので、この遺灰をどうしたらいいのか迷っていた。その時に事件は起きた。僕は山手線外回り目白に帰り、自分の住むマンションに戻るところだった。妹の遺骨にずっと僕は語りかけていた。日本は君がいない間に随分暑い国になったんだよ、というようなことを。

そして感慨に耽りながら顔を右に傾けて空を見上げたところ、横から自転車にぶつかられた。馬鹿野郎、という怒鳴り声と共に立ち止まった自転車が遠くに去っていく音が聞こえる。しかし怒るどころではなかった。僕は妹の遺灰を側頭部に浴びてしまったのだ。慌てて立ち上がり、遺灰を瓶の中に可能な限り戻そうとする。しかし中身が減ってしまっていることは否めなかった。ごめんよ、と僕は遺灰に向かって謝った。マンションに戻って遺灰の前に正座しもう一度、申し訳ない、と土下座して謝った。すると外で何かがぶつかる物音がした。ベランダから下を見ると自転車がゴミ収集車にぶつかり、血溜りが出来ていた。あの怒鳴った男なのだろうか、妹はあの男を殺したのだろうか、そう思うと怖くなった。

それから異変が起きるようになった。僕は全身をきちんと洗った。必ずしも妹の遺灰を洗い流すだけではなく、日常的な所作としても例えば一日の仕事の終わりに風呂に入るというように。そして風呂で明日会社に提出するための書類を用意すべくアイデアを練っている時に不意に、お兄ちゃん、という呼び声が聞こえ始めるようになったのだ。もちろん、僕は一人暮らしなので同居人はいない。僕は妹の遺灰が耳の中に残っているのだろうか、と訝しく思った。昔読んだ怪談物の本で、耳の中に住み着いた蜘蛛が子供を産んでむしゃむしゃと餌を食べる音がずっと聞こえて離れない人間の話を読んだことを思い出した。背筋が凍った。

声は空耳どころではなく、もっとはっきりと聞こえる。それは南極民謡であったり、南極語の挨拶であったり、村上春樹小説の一節の朗読であったりした。しかし一番多かったのはやはり、お兄ちゃん、という呼び声だった。棘が含まれているような言い方ではない。可愛らしい呼び方でもない。普通にキッチンで料理している時に背後から呼びかけるように、お兄ちゃん、という声は聞こえるのだ。

ある日、耳が詰まったので耳鼻科に行くことにした。耳の中の押し込まれた垢を吸い取ってもらう。と、何か硬いものが当たる音が聞こえた。医師が絶句しており、看護婦も顔色が青ざめているように見える。一体どうしたのか。耳から機器が外れたことを確かめて僕は横向きに体を寝かせていた寝台から立ち上がる。そして医師に何が取れたのかと聞いてみた。こんなことはあり得ない、と医師は言って机の上に置かれたものを凝視していた。

それは人間の奥歯だった。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん