物心ついてから賞賛された覚えしかない。いや、陰口や嫉妬で突かれたこともあるが、私と対峙すればどうしたって自分の無能を思い知らされるらしいので、結局同じことだ。
自分は優秀だなんていう勘違いの全能感など、早めに除去しておいたほうがいいと考えた私は、積極的に相手の無能を暴いていった。手近なところでは両親と教師に、時には両親の友人や親戚と称する連中、公の場で隙だらけの無能さを開陳する恥知らずを誅し続けた。
面白いことに、相手が幼児であるという一点において、彼らは正面から反駁せず、何か情感的な手段でもって自分の無能を正当化しつつ私を窘めようとする。この傾向は相当の広範囲にわたって観察された。呻くように真顔になったのち、不気味な笑みを浮かべて腰を落とす。「お嬢ちゃん」。私の発言の(一面的な)正しさを認めつつも、それは社会的に正しくない態度だ、といった意味の言葉を一方的に述べ、足早に去っていく。希に、そういった態度を取りたくても取れず、ただ狼狽し逆上し肉体的な報復を試みる人間も居た。自分の肉体的ハンデを認識できないほど馬鹿でない私は、装備している武器で自衛するのみだ。何にせよ、完膚無きまでに正しい指摘を受け入れられない人間の多さに私は辟易していた。
大学に出入りするようになって、ここは本当に最高学府なのかと驚いた。彼らは主に、研究意欲ではなく自尊心のために通学していた。私には、子供の書いた作文と、彼らの書いた論文の違いを見いだせなかった。多少味付けが違うだけで、文章からは自己主張と承認欲求しか感じられず、学理に対しなんらの貢献もない。無論すべてがそうではないが、本来あるべき論文は、膨大な駄文に埋もれる例外的な奇跡だった。そんな論文の著者ですら、相手の専門の話であっても私にまったくついて来れず、ただ相槌を繰り返すだけだった。
雑談すら5分ともたない。私は人類の無能さに失望しきっていた。私は自分のことを、それほど賢いとは認識していない。私程度の頭脳、もっと早期に凌駕されてしかるべきだと考えていた。ところがいつまで経っても、そんな事態は起こらない。ただへらへらと賞賛され、あるいは憤激され、憧れるに足る人物どころか、対等に付き合える人間すらたったの1人も現れない。研究は面白かったが、あの場所は自分の有能さを常に自覚させられるのみで、まるでモルモットのような気分になる。
どうして人類はこうも無能なんだろうか。どうして私程度の人間を、天才だなんだと持て囃すのか。どうして彼らは頭がいい振る舞いをして、それが成功すれば嬉しく思うのか。不可解だ。不可解だ。ああしかし解読できた。なんて矮小な思考経路だろう。なんてくだらない動機だろう。しかしその点においては私だって同じだ。私はただ、相手の不理解によって中断されることなく誰かと語り合い、そして、望むなら、それは間違っていると一度でいいから指摘して欲しいだけなんだ。私は私の外にある正しさを見てみたい。驚嘆と感動でもって外から来た正しさを出迎え、相手を憧憬し、間違った自分を恥じつつも愛おしいと思いたい。そんな些細なこと、些細なことなのに、どうして高望みになってしまうんだ。
「難しい数式で頭いっぱいかと思ってたら、なんだ、そんなこと考えてたのか。馬鹿だなあお前は」
そう言ってくれるはずの父や母はとっくに死んでしまった。優秀なはずの私は、この孤独がどれだけ続いているのか正確に把握していない。
http://anond.hatelabo.jp/20070224181147 を、10文字で要約しますと 私は乳離れできてない 以上。