はてなキーワード: 三回忌とは
うわ、そういうのってやっぱりありふれた話なんだw
うちの場合ちょっと違うんだけど揉めてるのは同じで、じいちゃんの介護から何からカーチャン(3人きょうだいの末っ子)がやってた。じいちゃんを看取って、いざ遺書を開いてみたら「カーチャン家には老後とても世話になったから、遺産の半分近くをカーチャンにやる」って書いてあって、ほかのきょうだいが「なんで3等分じゃないんだ!」と大騒ぎだよ。
家裁まで行ったあげく、最終的にはほぼ遺書通りになったけど、きょうだいの関係は完全にぶっこわれた。
悲しいのは、じいちゃんの法事にほかの家はおばさんしか来ないこと。おじさんもいとこも一度も来ない。一回忌、三回忌、七回忌、十三回忌もどれも。自分の父親や祖父の法事なのに!
親より兄弟に文句を言うのは、やっぱいまそこに生きてる人からでしょ。
うちのケースでは、生前のじいちゃんが他家への根回し(遺産はあんまりあげられないヨの情報提供)に消極的だったのが原因かもしれない。あるいはおじさんが若くて仕事がうまくいってなかったころ、じいちゃんはたびたび資金を援助していたらしく、その感覚で「もっともらえるはず」と思いこんでるのも問題かもしれない。
じいちゃんの資産はバブルですっかりやられて、何分の一にも減っていたのにね。
できれば、われわれ孫の世代はいとこどうし、うまくやっていきたいな。3きょうだいの誰かが死んだあたりから、関係改善を積極的に進めていきたい。
生きてるものが「この人は死んだのだ!」と強制認識するためにする儀式である、と。
そうでないと、死んだことを忘れてしまうとか、
情が深すぎる人なら、死んだことを受け入れられないとか、
引きずるでしょう。
それを断ち切るための強制儀式。
一緒に暮らしていた人を亡くすと、この辺よくわかるよ。法事とか仏壇の意味も少しわかってくる。
顔を見ても、すぐに死んでいるという実感はわかない。この場に居ないといっても生前もそんなことはある。いくら一緒に住んでいるといっても、四六時中一緒にいるわけじゃないし、数日とか家を空ける事もある。それに、特に最近は、最後を病院で過ごすしね。
しかし、ばたばたと葬儀の準備は進み、夜通し棺桶の前で過ごし、お坊さんがお経を唱える。その間、ずっと亡くなった事を意識させ続けられる。遺骨を拾う頃には、さすがに実感できるようになってくる。
その後、初七日、四十九日と、あれよあれよと亡くなった後、時が過ぎていることを思い出させられる。仏壇にある、新しい位牌を目にするたびに、なくなったのだと思う。そんな事を通して、居ないだけではなく、もう二度と会えないようになったのだということを、少しずつ実感していく。
そして時がたち、思い出すことが少なくなった故人を、三回忌、七回忌と言った法要でじっくりと思い出す機会が与えられる。そうやって、亡くなったことを理解し、思い出に変わるための手助けをしてるんだなと。
祖母が亡くなって、そんなことを学びましたとさ。