2010-11-19

ひねくれた主張

 最近考えてたこと。幸、不幸について

 人は誰しも幸せになりたいと思うし、僕もその内の一人だ。だが、自分にとって何が幸せなのか、と考えるとなかなかイメージできない。不幸ならいくらでも思いつくのだが、自分にとっての幸せとなると難しいのだ。

 なんでだろうなーと思って考えていたが、要は客観的な承認のされやすさに違いがあるのだと思う。

 

 自分が幸、不幸なんて事はとても曖昧で、他者と比べて自分幸せか不幸せか、というやり方でしか測れないのではないだろうか。もちろん主観的に判断すれば良いのだが、正直自分はそれでは少し不安になるし、同じように思う人は実は大多数だと思う。(隣の芝は青いっていうし。意味違う?)

 そういう前提で考えると、上手いこと説明できる。「不幸」というのは他者から承認されやすい。そうすることで不幸な本人に同情することで、自分が満たされるからだ。色んな意味で。 逆に、「幸」となると承認されにくい。人間、他人が自分より幸福だと嫌味の一つでも言いたくなるものだ。これはネット、特に2chとか匿名の所を見てるとよくわかる。「どうせ実は〇〇なんだろ」「そのうち〇〇になるに決まってる」とか。

 自分でもひねくれてて建設的でない考えだなとは思うが、唐突に思いついて、書いてしまった。

 「幸、不幸はもういい どちらにも等しく価値がある 人生には明らかに意味がある」って言葉自虐の詩っていう漫画にあったけど、この言葉を信じたい。

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