2010-08-15

にわかオタクの参入で困るのは年季の入ったにわかオタク

「にわかオタク」の参入によって「オタク」の名前価値が下がる、というのは良い。では、誰が困るのだろうか?

ニコ厨オタクの質がなんだとやかましい人間は何をそんなに怒っているのか?

およそこういうことだろう。名前価値が低下することによって困る人間というのは、名前価値に頼った人間しか居ない。

彼らは、本質的には自分達が憎む「にわか」となんら変わる所がなく、誰にも出来るような雑事に時間を使ってきただけという単なる無能だ。

アニメの視聴、マンガ読破ゲームクリアーといった、「オタク」の活動と目されているものの殆どは幼い子供でも出来る。

彼らと「にわか」を分ける物といえば、雑事に費やしてきた時間多寡だけ。年季の入ったにわかと呼んで差し支えない。

そこで彼らは自分達の名前を脅かす脅威の登場に際しては、「オタクとは萌えだけでなく何とかに対する感性が……」「オタクとは一般人とは相容れない、にじみ出る気持ちの悪さが……」「オタクとは作品への愛が……」「オタクとは……」などという自分に向けた定義の修正を始め、それを盾に自分は「にわか」と違う存在であるとして何とか「オタク」らしさを保つのだ。

この種の人間がかように「にわか」の参入に憤るのはまあ筋通りで、「にわか」の参入によって「オタク」のメッキが剥がれれば、後に残るのはただの無能ということになるなら、それは端的に恐怖だ。それは理解は出来るが、「にわか」が「オタク」の名前を求めていると言って、実際には怒ってる奴が一番依存しているのだから、これはなかなか見苦しい。

  • 「にわか」の先にあるものとして「大衆化」があるのだけれど、 その過程で対象物が変質させられる可能性がある。 例えば昔は「ロリコン」という趣味の中に「プラトニック」派もい...

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