2009-07-22

キリスト教懺悔の文化

欧米では犯罪が多く、すぐ裁判沙汰に持ち込まれるから、

欧米の人たちは、もめ事になってもなかなか謝らないと言われる。

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だが、それは、裁判で不利を被らないために、

  1. 裁判の可能性がある場合に、
  2. 人に向かって

謝ることはしない、というだけの話であって、

そうでない場合には、ちゃんと彼らは謝る。

つまり、

  1. 裁判の可能性にならないような場合には謝る
  2. 神に向かっては謝る

のである。

というか、神に向かっては、むしろ日本人以上に謝る。びっくりするほどに。

これには、キリスト教文化圏独自の「懺悔」の考え方が、背景にある。

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俺はこの懺悔の考え方が気にくわない。

キリスト教教会に行って、いろいろと話を聴いたことがあるのだが、

何かにつけて懺悔するように言われた。

「あのー俺、信者ではないのに懺悔しないといけないんすかー?」

って訊いたら、

懺悔しないと神罰がくだる」

だってさ。

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たしかに、悪い事をした時に悔い改めることは大切かもしれないけど、

キリスト教の人たちは、ちょっと懺悔しすぎで、その点では卑屈な感じがする。

また、人に謝るのなら分かるが、神に謝る必要性もまったく理解できない。

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この懺悔思想の極端な例が、モルモン教(カトリックなどからは異端とされるキリスト教の一派)である。

詳しくは知らないのだが、モルモンの人たちは、人生全体が懺悔みたいなものであるようだ。

「そんなに懺悔して何が美味しいの?」

とモルモンの人に質問したことがあるが、

「死んだあとで救われ、最高の幸せを味わえる」

というような答えが返ってきた。

そもそも死語の生や生まれ変わりがあるかどうかも分からないというのに、

そんなことのために人生全部を棒に振るとは、見上げた根性である。

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