2009-04-22

私の身の回りには、生き方不器用な人が多い。

しかし、それは得てして美徳である、と思う。

実直であることの有難味をひしと感じるのは歳をとったからか。

私は長いことピエロとして生きてしまった。

自分直視せず、相手を直視せず、全てを笑いのネタとして流してきた。

気付けば自分の中身は空っぽだった。

周囲に迎合することに囚われすぎて、

自分自身のアイデンティティを失っていた。

ボロという名の本心を出すことを恐れすぎて、

本心自体を持たなくなっていた。

器用に生きる人を、気配りの出来過ぎた人を見ると

身構えてしまうのはたぶんその所為だ。

仮面の内側がわからないのが、無性に恐ろしい。

そんな人が時たまポロリと出すボロが愛おしい。

急に距離が縮まった感じがして、安心するのだ。

相手にやはり中身があったことに安堵するのだ。

ボロを出してもいい相手だと、自分が信用された気がするからだ。

一方で不器用に実直に生き続ける人々は。

日々困難に真正面から立ち向かい、

ボロボロになりながら戦い続けている。

もう少し器用に生きればいいのにと思いながら、

私は応援し続けるしかない。

頑張れなんて、絶対に言わない。かける言葉Take careだ。

頑張らずに生きることができない人。

頑張っていることを隠さずにいられない人。

頑張っていることを隠すことができない人。

そして、頑張りたいけど頑張れない人。

いろんな人がいていろんな人生がある。

みんな何かと戦っている。

自分だったり、会社だったり、社会だったり、家族だったり。

私は自分仮面を守ることに必死だった。

そして、仮面が壊れた後に何も残らなかった自分絶望した。

私は、戦うのに疲れた、頑張ることを放棄した人間だ。

自殺こそしないが、生きているとは言いにくい。

ただ呼吸して、摂取して、排泄して。

私もいつかまた戦える日が来るだろうか。

いつか戦いたいと思うなら、また生きられるような気がする。

まずは、中身を作ろうと思う。

できれば実直な中身でありたい。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん