2009-04-06

小学生のとき

満開の桜を見るとどうしても、それが散るときの事を考えてしまう。

  

小学生の頃から自分存在に対する不安漠然と抱えていたんだ。

例えば風呂に浸かりながら突然、死について考えたりするわけ。

  

もう具体的なイメージじゃなくてもっと観念的なものなんだけど、死んだら無になるのかな。

それとも魂のような自分のコアみたいなものがあって、それが永遠に輪廻転生するのかな、って。

そこで無と永遠の二択を突きつけられてた。 

 

どっちも想像してみるんだけど、完全なる無は知覚できないし、永遠輪廻転生だってそんなもん想像力の外にある。

でもいつかそれが自分の身に降りかかるのだと考えると、どうしようもなく怖くなってしまう。

少なくとも数十年先に確実に突きつけられるその選択を待つしかない自分はなんなのだろう、と考えてみたり。

 

そういう不安とか、一時的で不安定な感じは、延々と落下し続ける紐の切れたエレベーターに乗っているようなもので、

あのふわっと宙に浮くような違和感をずっと抱えているのかもと今もふいに考えたりする。

  

逆に自分を中心に考える時もある。

自分意識が消えているとき、世界がそこにありつづける確証なんてないじゃんよ、って。

自分意識が無に還るならば、その周囲というか世界全てが消えて無くなる、みたいな世界観を延々と検討してみたりしていた。

簡単に言っちゃえば見えてるものは全部幻で、全部夢で、その可能性を自分は否定しきれないな、って。

  

で、至った結論は、皆少なからずそういう疑問に直面しながらも上手くやっているのかもしれない、ってこと。

 

自分以外はそんな疑念や疑問を感じない、そもそも意識を持ってるかすらもわからないもんな。

そういう立場も勿論ありうるんだけど、でもどの仮説が実際に生活する上でベターなのか。それくらい、小学生にだってわかる話。

 

でもそういう自分意識世界のあり方に対する疑念は、勿論しばらく忘れたりもするけど、解消しないままだ。

いくら考えたって答えなんてわかりっこないって事も十分承知しているんだけれど。

 

ふと思い出したんで書いてみた。

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