2009-02-20

殺人犯多世界解釈

「愛してんだよ俺は」男の口癖であった。

多世界解釈ってあんだろ。あるゆる現在が二通りの未来に分岐し、増殖し、目も眩むような網の目ができあがるっていうあれだ。あれを聞いたとき雷に打たれたかと思ったよ。だってそうだろ?今ここにある世界はその無限世界の中でたった一つきりってことなんだぜ?すごいと思わねえか?」

「確かにそう考えることもできますね」主人はグラスを磨きながら返事をした。

「でも愛してるならどうして殺すんです?」

「かー、わからないかね。この愛が。だからてめえはグズなんだよ」男は心底不快そうな顔をして不味そうに酒を呷った。

「いいか?俺が殺したやつらは他の世界じゃ友人だったり兄弟だったり、もしかしたら恋人なのかもしれねえだろ?素敵じゃねえか。確かに今この世界でそうするのも悪くない。悪くはないがベストではない」

「あたしはベストだと思うんですけどね」男にグズ呼ばわりされても主人は気にした様子がなかった。常日頃から自分人殺しだと吹聴していた男を、主人は頭のおかしな客だと考えて本気で相手などしていなかった。今日の会話も、珍しく他の客がいない退屈を紛らわすための気まぐれであった。

「じゃ、なにがベストなんです?」

「だから殺すことだよ」男は右頬だけを上げて歪な笑みを浮かべた。

「俺がこの世界でそいつらと楽しくやっちまったら他のどっかの世界で殺されちまうってことだろ?そんなの悲しいじゃねえか。安心して楽しめねえだろ?だからこそ今この世界で殺してやんだよ。そうすればそいつらは他の全ての世界で楽しくやれんだろ?だから殺すんだよ。愛してんだよ俺は」

「それじゃ何ですかい」主人は面白そうな顔を浮かべ男に言った。

「あたしも殺されちまうんですかい?」

「自惚れてんじゃねえぞ親爺」男は苛立たしげに吐き捨てた。

「誰がてめえなんかを愛してるもんか。言っておくぞ、親爺。俺はお前が大嫌いなんだよ。見てるだけで虫唾が走るほどにな」

「これは面白い」主人はにやにやしながら男に聞いた。

「それじゃ何でわざわざ虫唾が走るほどに嫌いな親爺の店で飲んでるんです?教えてくださいよ」

「だからこそだ」男は酒が入ったコップを手に取った。

「てめえみたいに虫唾が走るほどに嫌いな親爺の店で、酒なんて糞みてえにまずいものを呷る。そうすれば他の世界の俺はこんな不愉快な思いをしなくて済むだろ?」そして男は一気に酒を飲み干した。

「愛してんだよ俺は」


主人がその男のことを思い出したのは3年後のことであった。酒場という場所柄、頭のおかしな客は数え切れないほどいるが、酒に酔った様子もなく、素面で頭のおかしなことを言う客は珍しい。その中でもあの男は飛びっきりだった。だから連続殺人の容疑で逃亡生活を送り、先日、白昼堂々街中で通り魔を犯し、その後、警察に射殺された犯人顔写真が載った記事を見て、3年という年月を感じさせない早さで思い出したのは当然とも言えた。記事の小見出しには男の最後の言葉が載っていた。

「愛されてんな俺は」

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