はてなキーワード: クラッチとは
「ありがとう」といって後部座席から出て行った彼女の声は、いつもより少しだけ弾んでいた気がする。
始業時間に近いから、校門を通る生徒は途切れることがない。僕が高校生のときには自分が何者になれるのかという妄想を繰り広げたものだけど、大きな屋敷のお抱え運転手という将来像は予想していなかった。一方で無職という将来像は、そのときにも妙な現実味を帯びて頭の片隅にちらついていた。その暗黒からひとまず逃げられただけでも、幸せと言わなければならない。
僕は彼女が校門を通り抜けてしまうまで見送ってから、慎重にクラッチを上げた。
彼女を送っていったあと屋敷に戻ると、おばあさんが待っていた。
「少し早いけれど出してもらえるかしら」
いつもの店まではけっこう距離があるので、着いた頃には開店時間を過ぎているだろう。僕はすぐに車庫に引き返した。
二ヶ月たった今でも、この家の住人のことは断片的にしか知らない。
屋敷の主人たるおばあさんは鷹揚に振舞う、貴族的な雰囲気を持った人物だ。彼女は、たいてい金曜日と月曜日の昼にかけて、買い物に行く。そのときの同伴者は運転手である僕ひとりで、それほど話したがりとはいえない僕でも、無言では間が持たない。時々は話をしてみたりする。そして、気づくと煙に巻かれてしまっているのが常だ。
「ええ」おばあさんは短く返事をした。別に機嫌が悪いわけではないと思う。学年の話は以前に出ていたから、僕も身のある返事を期待していなかった。
「まだ受験が近いわけでもないから、楽しい学校生活を送っているんでしょうね」僕は今朝の彼女の声を脳裏に浮かべながら、言ってみた。彼女とは毎日顔をあわせるけれど、ほとんど会話らしい会話をしたことがない。僕も最初の三日くらいまでは、話しかけようとした。けれどあまりに反応が薄いので、なんとなく言葉をかけにくくなってしまい、最近は挨拶と時間の連絡くらいしかした覚えがない。
「私は、そう願っていますけれど」といっておばあさんは一瞬黙った。
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暇なので続けてみた。次の方、どうぞ。