2024-02-16

山下寅夫こと酒井喜代輔

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八重山編

八重山(4)(PDF形式:1.6MB)


第七章 食糧難とマラリア


一、抜刀威嚇で死地マラリアの島へ疎開

 ——家畜と人間の生地獄、波照間島の悲劇——


   :


2 ナゾの男山下と抜刀威嚇の疎開命令

 ー九四五年(昭和二十年)二月初旬(朝日丸工場空襲の数日前)

波照間島に青年学校の指導員として、山下寅夫が赴任した。山下と

は偽名で本名は酒井喜代輔(現在滋賀県守山市に酒井工業所を経

営)で彼は波照間を去るまで本名を明らかにしなかった。


   :


 何故、一学校の指導員の山下が、八重山郡島守備隊第四五旅団長

(宮崎武之少将)の命令という形で、村長を、そして村会議員に働

きかけ、疎開を指示することができたのか、また、彼は西表に配備

された護郷隊から配置されたと言われているが、どのような経路を

経て学校の指導員として、配置さおれてきたのか、ナゾに秘められて

いる。当時、西表島の護郷隊にいた波照間島新城清吉(三十歳)は、

 「彼は酒井喜代輔といい、軍曹であった。徳之島に行くことにな

っていたが、空襲がばげしかったので行くことができず、波照間に

指導員として派遣された。

 私と二か月間(昭和十九年の十二月前後)は同隊にいた。他の上

官に比べて臆病で、おとなしく思われ、敵機が見えたら誰よりも先

にあわててかくれるようなもので、話に聞くような波照間での態度

とは全くちがっていた。」という。

 波照間赴任当初は学校の指導員という形で来たので、生徒とも交

わり、父母の間にも親しく入っていったが、疎開の命令が出されて

本性を現わした。ここに日本軍の巧妙な手があった。

 疎開の命令が島に伝えられると、島民は周章狼狽した。それは山

下の変身振りにもあった。彼はこれまでの長髪を切り落とし、半ズ

ボンと長靴と軍服に身をかため、帯刀し、たちまちのうちに軍人と

化した。そして校長をも、区長、巡査、村会議員をも彼の軍刀の支

配下におき、島のすべての権力の上に君臨した。


   :


 また、南部落の勝連スエ(波照間 三十歳)は当日のようすを、

「山下は半ズボンをつけ、茶色の長い軍靴をはき、日本刀を二つ下

げていた。誰かがこんな小さな島には米軍は上陸して来ない、洞穴

があるから心配がないので疎開には反対だ、という声がすると、山

下は顔を真赤にさせて怒り、日本刀を抜刀してサッサッと振りまわ

して、自分の言うことに反対する者はこの日本刀で斬るとおどした

ので私たちはおどろいて、ふよるえながらそのようすを見た。

 山下がそうすると、誰ひとりものを言う人がいなかった。」

と証語している。

 この慶原山での協議を最後にして、翌日から疎開の準備にかか

り、準備は急速に進んだ。


   :


5 横暴な特務兵山下

 疎開が実施されると学校の指導員から軍人に変身した山下は、も

ともと学校の指導員として赴任したので、軍の階級も不明で、自か

ら少尉とか中尉とか名乗っていた。旅団所属の上等兵仲筋米三は家

畜の徴発に来た時の山下について次のように話した。

 「私が広井修少尉と家畜の層殺のために波照間に行ったら、島の

人々は山下という中尉が来て、たいへんなととをしているというの

で、旅団所属の中尉には山下という軍人はいないが誰だろうと思っ

ていたら、私たちが大嶺家に移った晩彼がやってきた。それは酒井

軍曹であった。

 私たらちは彼を酒井軍曹としか知らない。何故に山下と名前を変

え、中尉を名乗ったか不思識でならなかった。彼は広井少尉のまえ

で、酒井軍曹と名乗り、身震いしながら自分は護郷隊としてこの島

に来て、疎開を指導していると報告していた。私はなぜ酒井がそれ

ほど身震いしながら報告していたのか不思識でならなかった。上官

の前であるし、また名前、階級を偽っていたからだと思ったが、彼

の報告を聞いていると疎開の一切の命令、指示は彼の責任で行な

い、披が勝手気ままに行なっていたからではないかと思われた。」

 と証言している。

 波照間には壮年たちはみんな防衛招集され老人と婦人、子どもた

ちしかいないし、軍人は山下一人しかいないので、彼は軍隊につい

ては彼以外に誰も知っている者はいないと考えていたらしい。退役

軍人の一人である佐事安祥は、

 「疎開地で班長会の後、イノシシを撃ちに行きたいが誰か鉄砲を

使える者がいるかというので『はい、私ができます』と言ったら『

おお、いたのか。君は軍隊の経験があるか』というので『はい、私

は大正十二年兵、佐賀の五五連隊第十中隊の二番ラッパ手だった』

と言ったら、『おお君は平和時代の教育を受けた軍人ではないか。

その時代の軍人はりっぱだ。では、いっしょに連れて行く』と言っ

た。弾はいくらあるかと聞いたら五発しかないというので、それだ

けでは何にもならないと言って行かなかった。そうしたら彼は私と

力勝負しようと言ってきた。ちょうど白浜に行ったときてんま船が

いたので、てんま漕ぎ競争をしようというのでやった。当時、私は

四十二歳でまだまだ元気はあったし、また、かつお工場でてんま漕

ぐのは慣れていたので、私にかなうはずはなかった。彼は私に負け

たので次は何かで負かしてやると言った。

 またある晩は波照聞の桜橋で貨物を荷造りした三斗俵を青年たち

を使って船に積んでいたが、夜の三時半を過ぎているし、潮がひき

かけて、干潮になったら船が出られないということで、青年たちを

いそがせていたが、なかなかうまくできないので自分がやるという

ことで山下がやったが、彼は三俵だけ投げてへこたれてしまった。

私にも手伝いしてくれというので八〇俵余りの俵を船に投げてやっ

たら『君にはかなわない』と語っていた。

 その後は私には一目おくようになった。彼は軍隊について知って

いる者は島には彼以外にいないと考え、また彼より強そうな者は必

ず負かして彼の支配下におこうとした。彼は島の人たちを畜生同様

に考え、馬鹿にしていた」

 島には日本軍人は彼一人であるし、彼は軍政下だから軍人である

彼には何でもできると錯覚したのか、島のすべての権力の上に君臨

し、学校長、巡査、区長、議員などすべて彼の軍刀の支配下におい

た。

 疎開地へ最後に運航した晩、山下は巡査をはじめ住民三〇〜四〇

名に暴行を加えた。

それを見た仲底善祥はそのことを次のように話した。

「その晩は前、名石、富嘉部落などの最後に残った疎開民が出発す

ることになっていたが、集合が遅いし、また、船の能力も考えない

で勝手に荷物を積んであるということで、巡査もいながらこんなこ

とをするのかと言って、巡査をはじめ、部落の大人たち三〜四〇名

が彼にたたかれた。特に亀浜巡査はひどくたたかれ、けられ、溝に

仰向けに押し込まれ、暗がりで見ていた人々には、巡査は死んでし

まったのではないかと思われるほどだった。彼は巡査であろうが、

議員であろうが、彼の思うとおりにいかなければ、抜刀してかかっ

てきて子ども扱いにしたものだ」

 また、北と南部落の班の荷物を運搬した翌朝同部落の班長ら数名

が彼に暴行を受けた。その一人大泊ミツは、

「ある日、波照間から帰ってきた山下さんは各班長と炊事係集合し

ろという命令でしたので、四〜五人の班長と女は私一人集まりまし

た。体の大きい山下さんは太い長い棒で力いっぱいひとりひとりた

たきました。弱い私はたたかれると同時に地べたに倒れたのです。

何の理由でたたいたのか、今でもわかりません。」

 と話し、そのようすを見ていた勝連スエは、

「それは山下が波照間からくん製にして持ってきた自分の牛肉の俵

が見つからないのは班長に責任があるということで、北と南部落の

班長を南部落の一班小屋の前に集め、一列に並べて手を上に上げさ

せて、生竹の一メートルぐらいあったものでたたき、それが割れ、

ちぎれ、一節になるまでたたいた。私たちはかくれて見たが、あと

は恐ろしくて見かね、また山下に見つかったらたいへんだというこ

とで、ばあさんたちが、こんなものは見た人に罪があり、見ない人

には何の罪もないというので逃げてきた。その後、東迎のじいさん

は班に帰ってきて、山下にたたかれたということで班員や家族に八

つ当たりした。たたかれた班長は佐事、船附、新城、東迎のじいさ

ん方であった……。

 また私は班の倉庫の係で、島尻さんは炊事班長をしていたが、毎

日の食料の使用料と残量を山下に報告した。その報告にすこしのち

がいがあると釜にあるごはんのついたしゃもじでたたかれた。島尻

さんは貧乏班のくせにぜいたくに食べさせているということで、何

回山下にたたかれたかわからない。私の班は分家が多いのでどちら

かというと他の班より食料は少なかったので、貧乏班と言って馬鹿

にしていた。山下はあの班はお米班、この班は粟班、私たちの班は

ソテツ班だと話いふらしていた。島尻さんと私は無理がたたったの

か班では、誰よりも先にマラリアにかかってしまった。山下は私た

ちの寝ている小屋に来て『班の生命になる倉庫と炊事を預かる者が

先に倒れてはどうなるか。誰に引継いだのか』と言って寝ている私

たちにどなったので、うちのばあさんと島尻のばあさんがたまりか

ねて山下に、病人にまでそんなにしかるのかと言って山下は老人に

追いかえされたこともあった」と話した。

 山下は疎開地に来ると国民学校の四年生以上の学童と防衛招集さ

れない男女青年たちを集めて「挺身隊」を組織した。挺身隊は挺身

隊館として一棟の小屋をつくり、中央から通路をつくって両側に男

子、女子に分けて共同生活をした。挺身隊の任務は荷揚げ作業、船

の偽装、避難小屋造り、清掃、警備などで、夜間も不寝番をおいて

警備に当たった。挺身隊は各自ナイフと縄を巻いたものを常時腰に

下げ、各自でつくった戦闘帽をかぶっていた。いわば未成年者の軍

隊であった。彼等は毎朝ラジオ体操をし、日中は日程に従って共同

作業をし、夕方は砂浜に集合して教化訓練を受けた。指導者は山下

と波照間出身の青年学校の教師、石野盛正であった。この挺身隊の

指導員らは教化訓練という名で学童、青年らを酷使し、虐符した。

 括身隊のひとりであった波照間島新盛良政(十九歳)は「ある

日、私たち挺身隊は、真夏の日盛りの午後二時頃から五時間も暑い

砂浜で教化訓練ということで体罰を受けた。理由は清掃ができて

いない、ハエを取るのが少ないということだった。私たち挺身隊全

員を砂浜に二列に並べ、石野が男女かまわずひとりびとりを生竹の

ちぎれるほどたたいた。私は二〜三回たたかれると目まいがしたの

で、そのまま前にうつむきになって秒地に倒れ、腹が痛いと言って

難をのがれたが、立っている者はどんどんたたかれた。最年長の富

底康佑は特にたたかれ、彼はそれが原因で死んだ」

と言っている。また、富底廉佑の姉の上盛ミツ(二九歳)は、

「石野は挺身隊の子どもだちをハエを取るのが少ないというただそ

れだけの理由で、名石三班の前の浜に並べて、生竹がらぎれて一節

になるほどたたいたり、けったりした。私たらはそれを見て、生命

が欲しくてこんなところに疎開して来たはずだのに、何の罪があっ

て、成長ざかりの子どもだたちをそんなにたたくのかと思うと悲し

く、またにくらしくてたまらなかった。それを見ていた親たちはみ

な口を揃えてそういった。康佑(当時高等科二年)は腰から横腹に

たたかれた跡が黒くふくれあがり、それが痛いといって横になった

きり、それを病気にして南風見で死んでしまった。

 疎開地から引き上げて四〜五年後に、南風見から骨を拾ってき

た。康佑のろっ骨は折れていたという話しもあるが私は見ていない

のではっきりしたことはわからない」

と話し、また、西島本サダは

 「私の妹の敏子(仲底敏子、当時十歳で四年生)は、山下の部下

の石野にたたかれ、尻から左横腹にたたかれた胸が青紫にはれあが

り、それがマラリアにかかって熱が出るとよけいはれあがり、腐れ

て黒ずんだ汗が出るとそのまま死んでしまった。大仲文(当時十二

歳)も同じようにそれが原因で死んだ。石野は何故に学童までそん

なにたたけたのか、彼の心の内が知らない。彼はそのことで終戦

後、島の青年たらちに制裁を受けている」という。

 山下と彼の部下石野は悪気のない学童たちを強化訓線という名で

虐待し、殺人的な犯罪行為をしたのである。また山下は挺身隊に窃

盗を強要した。新盛良政は、

「山下は私たちにくり舟を盗んで来いということだったので、古見

に行き、海岸たあったくり舟を盗んで南風見まで帆をかけてきたこ

とがあった」

と語し、また銘刈進は、

「山下は仲間川にダンベー(大きいてんま船のこと)があるので盗

んで来いということだったので仲間川の上流に隠してあるダンベー

を取ろうと行ったら持ち主に見つかり、追われたのでその旨山下に

報告したら『みんなっいて来い』というので彼について行った。山

下は日本刀をふりかざしておどしたら彼らは頭をぺこぺこ下げて、

生命だけは助けてくれというのでそのダンベーを取り上げてきた」

と彼の犯罪的な横暴ぶりを話した。

 また彼は台湾人を彼の日本刀で虐殺したと自ら語っていたとのこ

とである。新盛良政はそのとことを次のように話した。

「私は山下が日本刀を肩にかけ、台湾人を一人たたきながら、シタ

ダレ川の上流に連れて行くのを見た。

 その台湾人は西表の炭鉱で、奴隷のように働かされた者で、私た

ちの疎開地に挑戦袋(カチガー袋)で作ったみすぼらしい着物を着

て、乞食のように食べ物を恵んでくれとやってきたので婦人たちが

かわいそうだと言って食べ物を与えたらたびたびやって来た。それ

を山下に見つけられ、山下は彼をスパイだといい、ほかにもう一人

台湾人が居るということで、それをさがすために川の上流に連れて

行ったらしい。出下は帰って来て、『他の一人は切ったが、ここか

ら連れて行った者は、逃がしてしまった』と言って自分の日本刀を

ふりかざしてアダンの枝を切り落していた」

 同じく佐事安祥も、

「私は山下が片手をしばった台湾人を一人連れ、彼は日本刀を肩に

かけて、その台湾人をたたいたり、引張ったりして連れて行くのに

シタダレ川の近くで遭った。『何をしたのか』とたずねると『こい

つは悪いことをした』と言って西の方へ連れて行った。それは午前

十一時頃であったが、午後三時頃また山下が西から帰ってきたので

『さっきの人はどうしたか』と聞いたら『切ってきたよ』と言って

帰って行ったが、班のところに来てみんなに、台湾人を殺して来た

と言って彼の日本刀でアダンの枝を切り落し、血のついた日本刀を

ふいて手入れしていたとのことである」と証言した。

 山下は台湾人を虐殺したのである。

 いかに乞食のような身なりをした台湾人と語っても、そのような

ことが人道上許されるべきでなく、彼はまさに殺人犯であったので

ある。

 彼は疎開地の婦人たちにも「近いうちに避難小屋に行くから一張

羅の晴れ着を用意しておけ』というので自分たちを殺すつもりかも

知らないと思って非常袋を用意したとのことである。(上盛ミツの

証言)

 狂気じみた彼は集団自決をも考えていたかも知れない。一歩誤れ

ば座間味島や渡嘉敷島の集団自決のような惨事をおこす寸前だった

かも知れない。

 このように非道極まる横暴をふるまった山下を動かした日本軍の

正体はいったい何であっただろうか。

 彼は陸軍中野学校出身で、

 「赤き心で 断じてなせば

  身もくだけよ 肉また散れよ

  君にささげん……」

と中野学校の校歌と言って女子挺身隊に教え、自ら国内スパイと言

っていたとのこととである。(加屋本シズの証言)

 彼は陸軍中野学校でゲリラ訓練を受けた特務教員であり、大本営

直属の「遊撃隊」(護郷隊)の特務将校で、西表島に駐屯する護郷

隊から派遣された。西表の護郷隊には波照間島からも新城清吉、前

迎登、山田均、慶田盛光次、南風本肇、など派遣されたがナゾに秘

められたこととが多い。

 山下はその使命のためには住民の生命や財産をも顧みないという

日本軍の正体をむき出しにしたそのものであったのである。


6 人間の生地獄

 ——マラリアの悲劇——


   :


 七月も半ばを過ぎ、暑さが増すとマラリア罹病者も急増し、罹病

者数百名にのぼり、死亡者は南風見田の東に疎開した北、名石、南

の三部落で七十余名、西の方に疎開した前部落で三名、富嘉部落は

ナシ、吉見四名、由布ではナシ、というように統出した。

 このような惨たんたるなかで、部落民は山下に疎開解除を要請し

たが、彼は聞き入れなかった。たまりかねた波照間国民学校長識名

信昇氏一行は一九四五年(昭和二十年)七月三十日、夜間にもかか

わらず旅団司令部へ乗り込み、疎開地の惨状を訴え、疎開解除を陳

情し、即日帰島が許可になった。喜んだ一行は疎開地へ急行し疎開

解除の許可のあったことを伝えたが山下は疎開解除はできないと拒

んだ。

 何故に、旅団長の命令をも山下は拒否することができたのか。こ

こに大本営直属の特務員の隠された秘密があったのである。即ち、

天皇直々に与えられた権限を有すると思いあがった青年特務山下

は、疎開の一切の命令、指示は彼の権限と関んで行ない、旅団長の

命令で疎開させたかのように見せかけながら、旅団長をも無視し、

彼の勝手気ままな考えで波照間の住民の生命と財産を取り扱ったも

のと思われる。ここに日本軍の護郷隊なるもの、特務兵、特務教員

なるものの秘められたナゾがあり、山下を動かした日本軍の正体が

あったのである。

 宮崎旅団長の帰島許可が山下に拒否されると山下と識名校長の論

争が始った。帰島を拒否する山下にたまりかねた部落民は、一九四

五年(昭和二十年)八月二日、南風見の挺身隊館に於いて緊急部落

会を開催した。山下は「島に帰るなら玉砕することを覚悟しろ!」

とどなりつけた。島に帰って玉砕するか、そのまま疎開を続けるか

の大評定の結果、疎開地に踏みとどまる希望者は一人もなく、満場

一致で帰島することに決議した。玉砕する決意での満場一致の決議

の前には山下の軍刀も功を奏することができまなかった。

 真に住民の立場にたち、住民の生命を護るために立ちあがったの

は軍人ではなく、学校の校長であっただのである。

 その大協議に出席した仲底善祥は、

「山下は『選に帰るなら玉砕することを覚悟しろ!まだ終戦になっ

ていないし、もう一度戻って来るかも知れないから帰島するなら

家はくずさないでそのままにしておけ!』と言ったが私は『マラリ

アでこんなに苦しんでいるのだから、島に帰ったら玉砕はしても

もう二度とこの地に来る能力はない!』とはっきり言ってやった。

山下は引き上げにあたって家はそのままにしておけとみんなに言っ

てまわったが、最後に残った人たちは家をみんなくずして引き上げ

た」と話した。


   :


 それを受けた村役所と旅団司令部からわずかばかりの医薬品と食

料が送られ、軍医二名と数名の救援隊が派遣された。彼等はおかゆ

をたいて病人を見舞ったりしたが、全島生き地獄と化した事能では

何の足しにもならず、またその時には多くの患者は死に、生き残っ

た者は回復に向っていた。無謀な退島命令を強行し、島の住民を酸

鼻の極に追い込んだ旅団だったが、その償いを果たす能力は持ちあ

わせていなかったのである。旅団から数頭の牛とわずかばかりの農

器具の援助があったが山下は彼に近い身内に分配して彼は島を引き

揚げて行った。

 その後救援物資の運搬に軍用船で同行した大浜信賢医博は当時の

ことを次のように記録している。

 「今次の戦争において最も酸鼻を極めたところは波照間島であり

ました。住民のマラリア罹患率は九九・七%で、いわばすべての住

民がマラリアにかかり、死亡者もまた最高で三〇・〇五%で、すな

わなち住民三名中一人は死亡しているのであります……

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